摂関家の才子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 14:20 UTC 版)
幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。同年、右近衛権中将。天承元年(1131年)に従三位。翌年参議を経ずに権中納言に昇進。長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。長承3年(1134年)、権大納言となる。また、姉の泰子(高陽院)が鳥羽上皇の皇后に冊立されると皇后宮大夫を兼ねる。保延2年(1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねる。保延5年(1139年)、東宮傅となり左近衛大将を兼任する。
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