摂関政治の背景とその意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:51 UTC 版)
「摂関政治」の記事における「摂関政治の背景とその意義」の解説
律令では、太政官が奏上する政策案や人事案を天皇が裁可する、という政策決定方式が採られていた。すなわち、天皇に権力が集中するよう規定されていたのであるが、摂政・関白の登場は、摂関家が天皇の統治権を請け負い始めたことを意味する。 摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけては、唐が衰えて混乱する大陸に対しては従来の渡海制を維持することで混乱の波及を抑制することができ、奥羽でも蝦夷征討がほぼ完了するなど、国防・外交の懸案がなくなり、国政も安定期に入っていた。そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなった。また、公的な軍事力が低下する反面、摂関家は、武力に秀でた清和源氏を家来とするなど、軍事力の分散化が見られ出した。また、9世紀中期の仁明・文徳両天皇は病弱で特に後者の時期には朝廷の会議にもほとんど出席できず、結果的には天皇不在のままで政務が遂行される「壮大な実験」が行われた。その経験が前例のない幼帝の誕生を可能にし、摂関政治や太政官における陣定など、天皇が直接関与しない朝廷運営の成立につながったとする見方もある。 すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となった。その中で、うまく時流に乗った藤原北家が大権の委譲を受けることに成功し、その特権を独占するとともに、独自の軍事力を保有するに至った。摂関家が要職を占めたので、他の貴族は手に職をつけることで生き残りを図った。 上皇も上皇で、律令政治初期の頃から「皇室の家父長」として後見を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来る。藤原良房の権力掌握開始が家父長的権力を有した嵯峨上皇の崩御に始まり、宇多法皇が家父長として背後にあった醍醐天皇の時代に一時摂関政治が停滞し、久しく絶えていた家父長的な上皇の復活である白河上皇が摂関政治に代わる院政を開始した事は、偶然では決して片付けられないものである。 加えて、当時の貴族社会における、婚姻と子供の養育制度にも、原因がある。古代日本の婚姻は「妻問婚」で、夫婦は同居せず、妻の居宅に夫が訪ねる形態であった。生まれた子供は妻の家で養育され、当然ながら藤原氏を母にもつ皇子も藤原氏の家で養育され、こうして育った天皇が藤原氏の意向に従うのは当然であった。ところが平安時代中期より制度に変化があり、生まれた子供を夫の家で養育するようになった。当然ながらこうして育った天皇は、藤原氏の意向に唯々諾々と従うはずがなかった。 また、国政の安定を背景に、権力の分散化も顕著となっていき、例えば、地方官の辞令を受けた者から現地の有力者へその地方の統治権が委任されるといった動きも見られた。この動きが、ひいては鎌倉幕府・武家政治の成立へつながっていく。
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