摂関家への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:01 UTC 版)
院の信任を失った為義は、事態打開のため摂関家への接近を図る。康治元年(1142年)8月、興福寺の悪僧15名が奥州に配流された(『台記』8月3日条)。これは摂関家の大殿・藤原忠実の意向で、権上座・信実に寺務を統括させるために反信実派の粛清を断行したものであるが、為義は忠実の命を受けて悪僧を捕縛して連行した。これ以降、為義は忠実・頼長父子の警護、摂関家家人の統制、摂関家領荘園の管理など、摂関家の家政警察権を行使する役割を担うようになる。 康治2年(1143年)、為義は藤原頼長にも臣従し、次男・源義賢も能登国にある頼長領荘園の預所となった。為義の奉仕に対して藤原忠実は「天下の固めであり受領になる資格がある」と高く評価した(『中外抄』)。久安2年(1146年)正月、為義は10年ぶりに還任して、当時としては異例の左衛門大尉となり検非違使への復帰を果たした(『本朝世紀』正月23日、26日条)。鳥羽法皇の勘気も解けたらしく、久安3年(1147年)の祇園闘乱事件では院の命令で強訴防御に出動している。
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