摂関家の苦境とは? わかりやすく解説

摂関家の苦境

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:36 UTC 版)

保元の乱」の記事における「摂関家の苦境」の解説

15日南都忠実から忠通に書状届き朝廷提出された。摂関家事実上総帥だった忠実管理する所領膨大なものであり、没収されることになれば摂関家財政基盤崩壊危機瀕するため、忠通は父の赦免申し入れた思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反張本人名指しされており、朝廷罪人認識していた。17日諸国宛て綸旨では、忠実・頼長の所領没官すること、公卿以外(武士悪僧)の預所改易して国司管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治所領平等院忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記7月17日条)と留保条件つけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園没収するということであり、忠通に氏長者受諾を迫る意味合いもあった。 19日、忠通は引き延ばしていた氏長者宣旨受諾し20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実取り上げた京極殿領と、泰子死後忠実回収した高陽院領)百余所荘園目録送られる摂関家荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収免れることができた。ただし、頼長領は没官され、後白河天皇後院領として、後の長講堂領基軸となる。『保元物語』には忠実断罪主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家弱体化目論む信西と、権益死守ようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子うかがわれる

※この「摂関家の苦境」の解説は、「保元の乱」の解説の一部です。
「摂関家の苦境」を含む「保元の乱」の記事については、「保元の乱」の概要を参照ください。

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