保元の乱とは? わかりやすく解説

保元の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 20:28 UTC 版)

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。


注釈

  1. ^ 『古事談』には父子の対立の原因として、崇徳天皇が白河法皇の子であり、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。この逸話について史実とする説(角田文衛)と風説に過ぎないとして否定する説(美川圭・河内祥輔)がある。また、現代医学でも妊娠をコントロールすることは困難で、なおかつ生理不順の時期があったことが確認できる[2]藤原璋子の月事を正確に把握することは不可能で、角田の論証は女性の身体が抱える問題を軽視しているとするジェンダー的な観点からの批判もある(服藤早苗)[3]。近年、藤原璋子の入内は璋子の養父であった白河法皇が鳥羽天皇と自分との間の連絡役になることを期待したもので、法皇と璋子の関係も『古事談』が伝える男女関係ではなく政治的な意味合いが強かったこと、更に崇徳天皇の外祖父は、誕生当時に既に故人となっていた藤原公実ではなく、璋子の養父である白河法皇その人であるとする指摘(樋口健太郎)もある。更に、鳥羽法皇と崇徳天皇の政治的対立の存在を指摘する研究(元木泰雄・安原功・下郡剛・佐伯智広ら)もある。
  2. ^ 妾腹の男子がいたが、母の身分が低いためか早くに出家している。
  3. ^ 通説では、忠通が頼長との約束を破ったと解されているが、樋口健太郎は本来は忠通に男子が生まれれば頼長はその子が成長するまでの「中継ぎ」になる予定であったが、白河院政下で失脚していた忠実が復権すると頼長の後見となったために忠通・頼長の関係が微妙になった(摂関家の家政職員も忠実ー頼長派と忠通派に分裂した)。そこに基実が生まれたことに危機感を覚えた忠実・頼長は頼長の子である兼長を忠通の養子に迎えさせて摂関家を忠通ー頼長ー兼長に継承させて忠通の子孫を摂関家の継承から排除して基実には高陽院の養子としてその所領を継承させようとした。忠実・頼長から約束破棄(基実の廃嫡)を強要された忠通と彼に仕える家政職員はこれに反発して、忠実・頼長と対立することになった、と説いている[4]
  4. ^ 「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」[6]
  5. ^ なお、佐伯はもう1つの理由として守仁が美福門院の養子の形で即位すると待賢門院及びその子女の所領に関する権利を失い、王家(天皇家)およびその所領の分裂にもつながりかねないため、待賢門院―雅仁(後白河)―守仁の系統を維持する必要があったと説く。
  6. ^ 為義については摂関家の家人であり北面ではないとする見解が一般的であるが、『愚管抄』に「キタオモテ(北面)」と明記され、院主催の流鏑馬行事や強訴防御にも登場することから、北面に在籍していたとする説もある[9]
  7. ^ この警備については、近衛天皇の崩御時と同様に、混乱一般の防止にあったとする説(河内祥輔)、動員の規模が大きく高松殿も警備の対象になっていることから、法皇没後に崇徳上皇や藤原頼長が兵を起こす危険に備えたという説(元木泰雄)がある。
  8. ^ ただし、後白河天皇も崇徳上皇同様に法皇の見舞いにも死後の対面にも行っておらず、崇徳上皇のみを拒絶の対象にしていた訳ではないとする指摘(河内祥輔)がある。
  9. ^ 法皇の遺体を棺に納めたのは、信西・藤原惟方・藤原成親源資賢・源光保・藤原信輔藤原信隆・高階盛章の8名だった[11]。その後の政治的動向を見ると、信西と惟方が主導的立場にあったと思われる。
  10. ^ 『兵範記』の記主。
  11. ^ なお、背後で画策したのは忠通とする説(河内祥輔)もあるが、頼長を追い落とすためとはいえ、摂関家の威信を失墜させる「氏長者の謀反人認定」という措置に踏み切れたかどうか疑問が残る。一方、信西は低い身分からのたたき上げで死刑復活や寺社統制を断行するなど、伝統や権威に縛られない人物だった。摂関家に対しても畏敬の念はなく、むしろ倒すべき障害と認識していた可能性もある。
  12. ^ 「当時マコトニ無勢ゲナリ」「勢ズクナナル者ドモ」[1]
  13. ^ 『保元物語』では為朝だが、『愚管抄』では為義が献策したとする。
  14. ^ 忠通の逡巡の本質について、河内祥輔は合戦そのものへの逡巡と説き、山田邦和は夜討という戦術に対する逡巡と説いて軍事行動にはむしろ積極的であったとする。山田は夜討につきものであった放火によって法勝寺などの六勝寺が延焼した場合、貴族社会内部からの反感を買うことを危惧したと見る。
  15. ^ 東三条殿に一時的に皇居を移したことについては、高松殿が手狭で軍事拠点に不向きだった、摂関家の屈服を示す狙いがあった、薬子の変承和の変の先例に従ったなどの説があるが、正確な理由は不明である。
  16. ^ 『保元物語』は為朝と景義の戦闘を白河北殿の門内とするが、『吾妻鏡』は大炊御門河原であったとする。
  17. ^ 山田邦和は、崇徳上皇が内裏のある高松殿の周辺、頼長も平安京を横断するという目につきやすい経路を用いて逃亡しているのに、残敵掃討の指揮にあたった義朝がこれを顧慮しなかったことを指摘し、「手抜かりというレヴェルですらあるまい」として、義朝を「十廿騎の私事」といった小競り合いに長けているだけの無能力な人物と酷評している。
  18. ^ 平清盛に比べて恩賞が少なかったことに不満を抱いた源義朝が後に平治の乱に加担することになったとされているが、これについては現任の官位(従五位下下野守)と比較すれば明らかに昇進しており、かつ河内源氏で初めて内昇殿が認められた義朝は厚遇された恩賞を受けていたとする元木泰雄の説と、この時代には謀叛の鎮圧の功績に対する恩賞の基準が既に確立されており、その基準に当てはめると明らかに低いもので冷遇された恩賞であったとする古澤直人の説がある(→平治の乱)。
  19. ^ とは言え、現任の藤氏長者であった頼長が謀叛人として逃亡(後に死去)して忠通に長者を譲ることが不可能である以上、忠通には天皇の宣旨による藤氏長者任命を受諾する以外の選択は最初から無かったと言える。なお、樋口健太郎によれば藤氏長者の宣旨による任命が定着するのはその後の摂関家の分裂による内紛の激化を原因としており、この案件とは別の問題であるとする[19]
  20. ^ 『保元物語』によれば強弓を惜しまれて減刑されたというが、元木泰雄は、にわかには信じがたく、合戦直後の混乱と興奮の中で多くの死刑が執行されてから一月が経ち、朝廷も冷静な空気が高まり死刑に対する非難が強まったことが関係したのだろうとしている[20]
  21. ^ 『兵範記』8月4日条には「ただ仏と仏との評定。余人、沙汰に及ばざるか」とある。仏は出家者のことであり、信西と美福門院を指していると見られる。
  22. ^ 京都大学図書館所蔵『下毛野氏系図』に実俊の名があり、その傍注に駿河守・平宗実の養子となり姓名を改めたと記されている[21]
  23. ^ 東国の武士は朝廷が国衙を通して動員しており、義朝と主従関係にない武士も多く含まれていたという指摘がある[22]

出典

  1. ^ a b c d 愚管抄
  2. ^ 『長秋記』長承3年10月10日条
  3. ^ 服藤早苗「懐妊の身体と王権-平安貴族社会を中心に-」初出:『歴史評論』728号、2010年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04701-8 2021年、P339-341.
  4. ^ 樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3 、第Ⅱ部第一章・第三章・第Ⅲ部第一章各論文
  5. ^ 樋口健太郎「中世前期の摂関家と天皇」(初出:『日本史研究』618号(2014年)/所収:『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P28-30.
  6. ^ 『山槐記』永暦元年12月4日条
  7. ^ 『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
  8. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」[7][注釈 5]
  9. ^ 横澤大典「白河・鳥羽院政期における京都の軍事警察制度-院権力と軍事動員-」『古代文化』527、2002年
  10. ^ a b 兵範記』7月5日条
  11. ^ 『兵範記』7月2日条
  12. ^ 『兵範記』7月6日条
  13. ^ 『兵範記』7月8日条
  14. ^ a b 『兵範記』7月10日条
  15. ^ 吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条
  16. ^ 『兵範記』7月21日条
  17. ^ 『兵範記』7月15日条
  18. ^ 『兵範記』7月17日条
  19. ^ 樋口健太郎「藤氏長者宣旨の再検討」(初出:『古代文化』63巻3号(2011年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3
  20. ^ 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年、P164.
  21. ^ 齋藤拓海「院政期の近衛官人と武士の関係--平実俊を通して」『日本歴史』746、2010年
  22. ^ 野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年






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