摂関家の儀式場
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頼通はその後も東三条第には住まず、長女の後冷泉天皇皇后藤原寛子の御所となった後、嫡男藤原師実の所有となった。『中外抄』によれば、師実は元服の後、東三条殿で生活したという。一方、川本重雄によれば、師実は大臣となった康平3年(1060年)頃より東三条殿を大饗等の行事を行う邸宅とするようになり、特に承保2年(1075年)に叔父藤原教通から藤氏長者(摂関家当主) を引き継ぐと、摂関家の象徴である朱器台盤をここに移し、以後、子女の五十日、元服、立后など、大規模な儀式を行なう場とした。これはこの頃より日常生活を営む邸宅は対屋を主体とした造りとなっており、大饗等を行える大きな寝殿を持つ東三条殿は、儀式専用の邸宅となったためという。 東三条殿の所有権(券文)は、康和1年(1099年)3月、藤氏長者を継いでいた嫡男藤原師通に譲られたが、3ヶ月後に師通が死去したため、所有権は再び師実に戻り、2年後のその死後は正妻の源麗子の管理下に置かれた。この間も東三条殿は摂関家の儀式の場として用いられ、永久2年(1114年)に麗子が没すると、東三条殿を含む所領は師通の嫡男藤原忠実の所有となった。翌年7月、忠実は東三条殿に移り、2年後に新造の鴨院に移るまで滞在した。『類聚雑要抄』にはこの移徙の儀等、この時期の東三条殿を舞台にした儀礼の様子が図面とともに収められている。また、後白河院の命で製作された『年中行事絵巻』の大饗等の場面も東三条殿を舞台としているとされる。 保安元年(1120年)1月、忠実は嫡男藤原忠通に東三条殿の所有権を譲った。同年11月、白河院により忠実の内覧が停止され、翌年初めに忠通が関白に就任した後も、東三条殿は摂関家の大規模な行事の会場として用いられた。長承4年(1135年)に忠通の後継者であった弟藤原頼長が近衛大将に任じられた頃から、頼長の重要儀式にも用いられている。
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