摂関家の儀式場とは? わかりやすく解説

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摂関家の儀式場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 15:13 UTC 版)

東三条殿」の記事における「摂関家の儀式場」の解説

頼通その後東三条第には住まず長女後冷泉天皇皇后藤原寛子御所となった後、嫡男藤原師実所有となった。『中外抄によれば、師実は元服の後、東三条殿生活したという。一方川本重雄によれば、師実は大臣となった康平3年1060年)頃より東三条殿大饗等の行事を行う邸宅とするようになり、特に承保2年1075年)に叔父藤原教通から藤氏長者摂関家当主) を引き継ぐと、摂関家象徴である朱器台盤をここに移し以後子女五十日元服立后など、大規模な儀式行なう場とした。これはこの頃より日常生活を営む邸宅は対屋を主体とした造りとなっており、大饗等を行え大きな寝殿を持つ東三条殿は、儀式専用邸宅となったためという。 東三条殿所有権券文)は、康和1年1099年3月藤氏長者継いでいた嫡男藤原師通譲られたが、3ヶ月後に師通が死去したため、所有権は再び師実に戻り2年後その死後正妻源麗子管理下に置かれた。この間東三条殿摂関家儀式の場として用いられ永久2年1114年)に麗子没すると、東三条殿を含む所領は師通の嫡男藤原忠実所有となった翌年7月忠実東三条殿移り2年後新造院に移るまで滞在した。『類聚雑要抄』にはこの移徙の儀等、この時期東三条殿舞台にした儀礼様子図面とともに収められている。また、後白河院の命で製作された『年中行事絵巻』の大饗等の場面東三条殿舞台としているとされる保安元年1120年1月忠実嫡男藤原忠通東三条殿所有権譲った同年11月白河院により忠実内覧停止され翌年初めに忠通が関白就任した後も、東三条殿摂関家大規模な行事会場として用いられた。長承4年1135年)に忠通の後継者であった藤原頼長近衛大将任じられた頃から、頼長の重要儀式にも用いられている。

※この「摂関家の儀式場」の解説は、「東三条殿」の解説の一部です。
「摂関家の儀式場」を含む「東三条殿」の記事については、「東三条殿」の概要を参照ください。

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