東三条殿とは? わかりやすく解説

東三条殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/09 03:10 UTC 版)

東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。


注釈

  1. ^ 東三条殿は兼家から詮子に譲られ、その手から道長に譲られたとの説もあるが[14]、女院となった後の詮子は道長の土御門殿・一条殿を御所としており、根拠に乏しい。
  2. ^ みはてぬゆめ、はつはな。
  3. ^ ただし、文官で集まったのは藤原忠通基実親子と信西のみで[20]大半の公卿は合戦開始の報を聞いて慌てて参集したとしている。

出典

  1. ^ 『日本紀略』仁和4年1月17日条。
  2. ^ 『日本紀略』。
  3. ^ 『日本紀略』安和2年8月13日条。
  4. ^ 『日本紀略』正暦2年4月2日条。
  5. ^ 『日本紀略』永観2年3月15日条等。
  6. ^ 『日本紀略』永観2年8月27日条等。
  7. ^ 小右記』寛和1年2月20・21日条。
  8. ^ 『日本紀略』・『本朝世紀』正暦元年10月22日条。
  9. ^ 『日本紀略』 正暦1年12月3・13日条、正暦2年6月15日条・7月27日条等。
  10. ^ 『院号定部類記』、『日本紀略』・『小右記』・『権記』正暦3年4月27日条・正暦4年1月3日条、『権記』長徳4年10月29日条等。
  11. ^ 『日本紀略』 ・『権記』正暦4年3月30日条。
  12. ^ 『日本紀略』・『小右記』長徳1年1月9日条。
  13. ^ 『日本紀略』・『小右記』長徳1年4月6・11日条等。
  14. ^ 高群逸枝「藤原兼家」『平安鎌倉室町家族の研究』による。
  15. ^ 『権記』長保2年12月2日条。
  16. ^ 『権記』長徳4年10月29日条等。
  17. ^ 『小右記』長元2年9月13・18日条。
  18. ^ 『中外抄』上、第16・49話。
  19. ^ a b c d 川本重雄『寝殿造の空間と儀式』中央公論美術出版、2005年。
  20. ^ 兵範記』による。


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