忠平邸から兼家邸へ
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忠平の日記『貞信公記』には承平1年(931年)2月に「東三条」から書状を送ったことが見え、この頃には忠平の所有であったらしい。天暦元年(947年)10月には村上天皇女御藤原述子(忠平孫)が東三条第で没している。また重明親王は忠平の女婿であったことから、一時期その家であったという伝承も史実と考えられている。重明親王邸時代の説話は『今昔物語集』や『中外抄』等に見え、左近桜を重明親王邸から内裏に移したという伝承も東三条殿に関わるとも言われる。 その後、忠平の孫である藤原兼家の妻の一人が記した『蜻蛉日記』の安和2年(969年)閏五月の段に、「新しきところ作るとて通ふたよりに」立ち寄ってくる等とあり、翌年初頭の段には「めでたく作りかかやかしつるところに、明日なむ、今宵なむとののしる」とあることから、この頃に兼家が東三条第を改築して自邸としたと考えられている。ちょうど安和元年に兼家長女の藤原超子が冷泉天皇に入内しており、その里第としての機能があったとする説もある。当時の構造は中央に寝殿が置かれてその左右に東西の対が連なる本院と、敷地の南側に別邸である南院を配置していたとされる。この後、東三条殿は兼家の主邸となったため、彼のことを「東三条殿」と号す。犬猿の仲の兄藤原兼通は近くの堀河殿を主邸として「堀河殿」と呼ばれ、『栄花物語』には東三条殿へ向う車馬を兼通側が監視した様が描かれている。 なお、安和2年(969年)8月、冷泉天皇が円融天皇に譲位した際に、皇后昌子内親王は「東三条」に移っているが、この御所はその後「三条院」「三条御所」等とも呼ばれ、正暦2年(991年)に焼亡しており、別の邸宅であったらしい。 超子は天延4年(976年)、東三条殿で居貞親王(後の三条天皇)を産み、同じく超子の生んだ為尊親王・敦道親王も東三条殿で育った。また、円融天皇の女御であった兼家次女藤原詮子は南院を里第とし、天元3年(980年)にはここで懐仁親王(後の一条天皇)を産んだ。 永観2年(984年)3月、東三条殿は焼亡する。当時、内裏は近くの堀河殿にあり、東宮師貞親王は隣の閑院にいたため、多くの公卿が付近に駆け付けたという。ただ、南院は焼亡を逃がれたらしく、懐仁親王は、同年8月、立太子とともに南院から内裏の凝華舎へ移っている。また、寛和元年(985年)には、詮子と懐仁親王のいる東三条第南院を円融上皇が訪れている。翌年6月末に懐仁親王が一条天皇として即位すると、7月に詮子は東三条第南院で皇太后に立后され、内裏に移った。追って南院では居貞親王が元服・立太子している。 摂政となった兼家は、翌永延元年(987年)、東三条第本院を再建し、7月には移り住んだ。『大鏡』によると、この時に西対を内裏の清涼殿に模して建てたために批判を浴びたという。8月末には南院に詮子が入っている。『大鏡』によれば、この頃、詮子は源高明の娘明子を東三条殿の東対に住まわせて姫宮のようにもてなし、藤原道長を通わせたという。
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