忠平邸から兼家邸へとは? わかりやすく解説

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忠平邸から兼家邸へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 15:13 UTC 版)

東三条殿」の記事における「忠平邸から兼家邸へ」の解説

忠平の日記貞信公記』には承平1年931年2月に「東三条」から書状送ったことが見えこの頃には忠平の所有であったらしい。天暦元年947年10月には村上天皇女御藤原述子(忠平孫)が東三条第没している。また重明親王は忠平の女婿であったことから、一時期その家であったという伝承史実考えられている。重明親王時代説話『今昔物語集』や『中外抄』等に見え左近桜重明親王邸から内裏移したという伝承東三条殿関わるとも言われるその後、忠平の孫である藤原兼家の妻の一人記した蜻蛉日記』の安和2年969年)閏五月の段に、「新しきところ作るとて通ふたよりに」立ち寄ってくる等とあり、翌年初頭の段には「めでたく作りかかやかしつるところに明日なむ、今宵なむとののしる」とあることから、この頃に兼家が東三条第改築し自邸としたと考えられている。ちょうど安和元年に兼家長女の藤原超子冷泉天皇入内しており、その里第としての機能があったとする説もある。当時構造中央寝殿置かれてその左右に東西の対が連なる本院と、敷地南側別邸である南院配置していたとされるこの後東三条殿は兼家の主邸となったため、彼のことを「東三条殿」と号す。犬猿の仲の兄藤原兼通近く堀河殿を主邸として「堀河殿」と呼ばれ、『栄花物語』には東三条殿向う車馬を兼通側が監視した様が描かれている。 なお、安和2年969年8月冷泉天皇円融天皇譲位した際に、皇后昌子内親王は「東三条」に移っているが、この御所その後三条院」「三条御所」等とも呼ばれ正暦2年991年)に焼亡しており、別の邸宅であったらしい。 超子は天延4年976年)、東三条殿居貞親王(後の三条天皇)を産み同じく超子の生んだ為尊親王敦道親王東三条殿育ったまた、円融天皇女御であった兼家次女藤原詮子南院を里第とし、天元3年980年)にはここで懐仁親王(後の一条天皇)を産んだ永観2年984年3月東三条殿焼亡する。当時内裏近く堀河殿にあり、東宮師貞親王は隣の閑院にいたため、多く公卿付近に駆け付けたという。ただ、南院焼亡を逃がれたらしく、懐仁親王は、同年8月立太子とともに南院から内裏凝華舎移っている。また、寛和元年985年)には、詮子懐仁親王のいる東三条第南院円融上皇訪れている。翌年6月末に懐仁親王一条天皇として即位すると、7月詮子東三条第南院皇太后立后され、内裏移った追って南院では居貞親王元服立太子している。 摂政となった兼家は、翌永延元年987年)、東三条第本院再建し7月には移り住んだ『大鏡』によると、この時に西対を内裏清涼殿模して建てたために批判浴びたという。8月末には南院詮子入っている。『大鏡』によればこの頃詮子源高明の娘明子東三条殿の東対に住まわせて姫宮のようにもてなし藤原道長通わせたという。

※この「忠平邸から兼家邸へ」の解説は、「東三条殿」の解説の一部です。
「忠平邸から兼家邸へ」を含む「東三条殿」の記事については、「東三条殿」の概要を参照ください。

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