摂関の実権低下と家職化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:51 UTC 版)
道長の子頼通は摂関の地位に約50年間就いた。皇親政治期以来、公卿の多くが天皇と近しい縁戚関係を持つ者で固められていたが、長らく摂関家嫡流のみが縁戚関係を独占したことで、公卿の縁戚者比率が低下し、縁戚者の首席としての天皇外戚の力も低下することとなった。その外戚の地位も、頼通が入内させた娘から男児が生まれなかったことで北家嫡流(御堂流)は失うこととなる。 1068年、御堂流を母とする男子皇族が絶えた状況で後冷泉天皇が崩御したことから後三条天皇が即位した。後三条天皇は藤原北家の祖父を持たない約170年ぶりの天皇であり、それを支援したのは同じ摂関家ながらその就任資格から排除された藤原能信(頼通の異母弟)らであった。後三条天皇は能信の養女茂子を女御とする程度しか御堂流との繋がりはなかったものの、関白には頼通の同腹弟である教通が就き、外戚と関白の地位が分立することとなった。後三条が皇太子時代に頼通らから圧迫を受けていたこともあり、後三条は関白の献言をあまり取り上げず実質的な親政を行い、天皇の威信と律令の復興を意図する政策を次々と打ち出した。この間、摂関家では頼通と教通が確執を起こして、天皇に対して具体的な対抗手段を取れる状況ではなかった。しかし、皇位は茂子所生の白河天皇に譲っている。 白河天皇は藤原氏を母と妻(中宮)に持っていたため、後三条母の陽明門院ら反藤原氏勢力は、異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意向を持ち、白河天皇もそれを無視できなかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、ここに至って白河天皇は自分の子に皇位を継がせる事を決意し、8歳の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。政治の実権は堀河天皇の母藤原賢子の養父である摂政の藤原師実(頼通の子)が握り、堀河天皇成人後は藤原師通(師実の子)が関白となり、一時期であるが摂関政治が復活した。 しかし師通は働き盛りの時期に急逝し、その後摂関家では後継者争いが生じ、これに親藤原氏の立場ゆえに藤原氏への影響力を持っていた白河法皇の介入という形で解決がなされてしまう。このため、以後の摂政・関白の任命には上皇(法皇)の意向が反映される慣例ができあがった。しかも後を継いだ藤原忠実はまだ若年で政治的経験に乏しく、堀河天皇を補佐するに足らず、やむなく天皇は白河法皇に政務の補佐を頼むしかなかった。こうして、いわゆる白河院政が開始された。藤原氏と良好な関係を持っていた白河法皇の施策によって、摂関政治の衰退に拍車がかかってしまうという、何とも皮肉な結末となった。堀河の崩御後、北家傍流である閑院流の藤原実季を外祖父とする鳥羽天皇が5歳で即位するが、この際に実季の嫡男である公実が摂政の地位を要求する。白河は、自らの側近(院近臣の原型)の源俊明の献言を容れて前関白の忠実を摂政に指名し、関白のみならず摂政も外戚から切り離されて摂関が家職化した。この判断の背景には摂関の職務を行う上で必要な故実が御堂流にしか伝わっていないこと、御堂流に比べて閑院流の公卿の数が少なく後見としての不安感を抱かれたという現実的判断もあったと考えられる。 また、皇位継承者決定も摂関およびそれ以外の人事指名も王家の家長たる上皇(治天の君)が行うこととなり、院への権力集中がより明確、かつ慣例化した。人事については非公式文書の「任人折紙」が院から下され、天皇もしくは摂政は、その指示通りに執行することとなった。人事権が院に移った以上、家司受領からは貢納を怠るものが続出し、摂関家は荘園を集積することで穴埋めを図った。しかし、平城上皇の変以来、退位した太上天皇は内裏には立ち入らない原則があり、治天の君は内裏内部のことについては摂関を自らの代理にして自らの意思を反映させる方法を取らざるを得なかった。摂関政治の終焉後も摂政・関白が必要とされた理由の1つと考えられる。 古典的な理解での摂関政治はまさに院政によって終焉した。古典的理解による摂関政治は母系的繋がりを持つ天皇、公卿による政治の独占で、母系の要となる者が摂政・関白となるという理解である。しかし、院政の出現により、貴族の家格というものが固定される。古典的理解での摂関政治では、幼帝の外祖父とその血縁者のみが摂政、後に関白や公卿の権利を持っていたが、院政の成立後には藤原北家頼通流にのみ摂政・関白職が世襲されることが公認される。皮肉にも摂関政治を終焉に導いた院政が「摂関家」という概念を生み出した。そして、実体としての摂関政治は、後三条・白河期に終焉を迎えていたと見るべきであろう。
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