竹島領有権主張との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 02:21 UTC 版)
「于山島」、「竹島」、「独島」、「竹島問題」も参照 大韓民国では、古文献や古地図に登場する「于山島」を現在の竹島と解釈しており、『三国史記』の記述にある「于山国」の領域を鬱陵島と竹島(韓国名:独島)としている。ただし、『三国史記』の記述には鬱陵島以外の島のことは記されていない。『三国史記』では512年に于山国が新羅に服属したとあるため、韓国政府は「独島」(日本名:竹島)は鬱陵島とともに512年以来、韓国・朝鮮の領土だとの論を展開している。 また、朝鮮国王が国家統治にあたり、手もとにおいて百科事典のように参照した1808年刊行の『万機要覧』には、 輿地志に曰く、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人のいうところの松島である。 — 万機要覧 軍政編 海防 東海、p543「輿地志云、欝陵・于山、皆于山國地。于山則倭所謂松島也。」 との記載がある。これは、韓国では于山島が「独島」であることを明白に示したものであると受け取られている。 なお、韓国政府が「独島」を韓国領とする有力な根拠として一貫して掲げてきたのが『世宗実録』「地理志」(1454年編纂)であった。たとえば「韓国政府見解1」(1953年9月9日)では「于山・武陵の二島が蔚珍県の真東の海中にある。二島はそれほど離れておらず、天気のいい日にはたがいに望見できる」という「地理志」の記載の重視を訴えた。この見解は現代の韓国政府にも引き継がれている。これに対して「日本政府見解2」(1954年2月10日)では、この「地理志」に「新羅のときに于山国と称した、一説に鬱陵島という」と記載されていること、『東国輿地勝覧』(1543年)には「于山・鬱陵は本来一島」とあること、さらに『文献撮録』では三峰島、于山島、鬱陵島がすべて同じ島であることを明らかにしていることを指摘し、韓国政府見解を批判した。これに応えて、韓国政府は「韓国政府見解2」(1954年9月25日)において、于山島と于山国を区別し、于山島が鬱陵島とともに于山国を構成し、「一説に于山・鬱陵は本来一島」とあるのは単に曖昧な一説を提示しただけであり、本来の『東国輿地勝覧』は「于山島と鬱陵島、二島は蔚珍県の真東の海中にある」と記述していること、『文献撮録』は李朝末期の個人の随想にすぎず文献的価値がないことなどを示して反論した。また、『増補文献備考』(1770年)の記録、すなわち上掲『万機要覧』の記載では、于山島と鬱陵島を明確に区別していることを以て従来の二島二名説を補強した。
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