『三国史記』における「于山国」とは? わかりやすく解説

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『三国史記』(1145)における「于山国」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)

于山島」の記事における「『三国史記』(1145)における「于山国」」の解説

1145年編纂された朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、「512年6月于山国服属毎年土地産物貢いだ于山国は溟州のちょう東の海の島にあり、別名を鬱陵島という」とある。すなわち、「于山国」とは鬱陵島の別名である。韓国政府は、後年の『世宗実録地理志に基づく韓国側解釈をこの『三国史記』に遡及適用することによって、竹島512年以降ずっと韓国領であると主張している。しかし、『三国史記』には鬱陵島以外の島のことは全く記されていない。なお、島の大きさについては、通常1里=400メートル計算する100里だと約40キロメートルとなるが、実際鬱陵島より大き過ぎるので、ここでは短里の1里=80メートル使われて8キロメートル四方であると考える方が自然である。 原文 (※可読性上のため空白入れ固有名詞以外は旧字体新字体変更。以下同様)三国史記巻第四 新羅本紀 智證麻立干十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 為何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以討服 乃多造木師子 分載戦船 抵其国海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 国人恐懼則降 翻訳三国史記巻第四 新羅本紀 智証麻立干紀(智証麻立干十三年(512年)夏六月于山国服属毎年土地産物貢いだ于山国は溟州(現在の江原道江陵市のちょう東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、百里(8四方ある。渡航困難なことを恃みにして服従しなかった。何瑟羅州の軍主となった伊飡の異斯夫が言うには、于山人は愚か凶暴である。威嚇するのは難しいが計略をもってすれば服従させることができる。そこで木製獅子の像を多く造り戦艦分けて載せその国の海岸に着くと、誑かして「お前たちがもし服属なければ、すぐにこの猛獣放ち踏み殺させるぞ。」と告げると、于山国人は恐れきすぐに降伏した6世紀初めに于山国」が新羅服属して朝貢関係にあったことは『三国史記』の記すところであるが、1022年顕宗13年)頃まで用いられていた「于山国」の呼称は、この時期最後に高麗史』や『高麗史節要』などの文献資料から姿を消すようになり、このことについて、韓国の金柄烈(戦争法国際法専門)は11世紀初頭女真族高麗侵攻影響挙げている

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