『三国史記』(1145)における「于山国」
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「于山島」の記事における「『三国史記』(1145)における「于山国」」の解説
1145年に編纂された朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、「512年6月に于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島という」とある。すなわち、「于山国」とは鬱陵島の別名である。韓国政府は、後年の『世宗実録』地理志に基づく韓国側の解釈をこの『三国史記』に遡及適用することによって、竹島は512年以降ずっと韓国領であると主張している。しかし、『三国史記』には鬱陵島以外の島のことは全く記されていない。なお、島の大きさについては、通常1里=400メートルで計算すると100里だと約40キロメートルとなるが、実際の鬱陵島より大き過ぎるので、ここでは短里の1里=80メートルが使われて8キロメートル四方であると考える方が自然である。 原文 (※可読性向上のため空白を入れ、固有名詞以外は旧字体を新字体に変更。以下同様) 『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 為何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以討服 乃多造木偶師子 分載戦船 抵其国海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 国人恐懼則降 翻訳 『三国史記』巻第四 新羅本紀 智証麻立干紀(智証麻立干)十三年(512年)夏六月、于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州(現在の江原道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、百里(8㎞)四方ある。渡航が困難なことを恃みにして服従しなかった。何瑟羅州の軍主となった伊飡の異斯夫が言うには、于山人は愚かで凶暴である。威嚇するのは難しいが計略をもってすれば服従させることができる。そこで木製の獅子の像を多く造り戦艦に分けて載せその国の海岸に着くと、誑かして「お前たちがもし服属しなければ、すぐにこの猛獣を放ち踏み殺させるぞ。」と告げると、于山国人は恐れ慄きすぐに降伏した。 6世紀初めに「于山国」が新羅に服属して朝貢関係にあったことは『三国史記』の記すところであるが、1022年(顕宗13年)頃まで用いられていた「于山国」の呼称は、この時期を最後に『高麗史』や『高麗史節要』などの文献資料から姿を消すようになり、このことについて、韓国の金柄烈(戦争法・国際法専門)は11世紀初頭の女真族の高麗侵攻の影響を挙げている
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