『三匹の侍』成功以降とは? わかりやすく解説

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『三匹の侍』成功以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 21:58 UTC 版)

五社英雄」の記事における「『三匹の侍』成功以降」の解説

五社は、入社2年目編成部員の白川文造と共に企画を拡げていき、1963年昭和38年)のテレビ時代劇三匹の侍』で、丹波哲郎のほか、平幹二朗長門勇キャスティングした。当時長門浅草ストリップ小屋コントしながら下積み生活をしていた無名役者であった。 『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金属音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた。映画のようなカメラワークロケ望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回り演出するため工夫されこうした効果音」の演出は、五社初め時代劇編み出したものであった激しアクションテレビ時代劇三匹の侍』の全26話は高視聴率保ち続け大成功収めた。翌1964年昭和39年)には映画版三匹の侍』も製作された。この映画は、丹波哲郎創設したさむらいプロダクション」が製作に乗り出し松竹京都撮影所撮影された。当時映画業界人は、テレビ人間を「紙芝居屋」と見下げていた。 松竹スタッフテレビ局のディレクター五社反感持ち様々な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社次第打ち解けていった。この頃五社出かける前に「やるぞみておれ」という歌詞の『出世街道』のレコード毎朝聴いていたという。映画三匹の侍』はテレビ局出身初の映画監督作品となったが、当時の映画ジャーナリズムから黙殺された。 しかし衰退映画会社にとって五社演出力は魅力だった。当時任侠路線進んでいた東映は、その路線変更会社方針反抗する中村錦之助のために、巨匠ではない五社起用し丹下左膳 飛燕居合斬り』など低予算時代劇製作した同じく東映製作時代劇牙狼之介』『牙狼之介 地獄斬り』では、五社俳優座夏八木勲抜擢して西部劇風に演出した。 フジテレビ屋上殺陣特訓稽古つけられた夏八木当時振り返り刃引きはしてあるものの重量は真剣と同じ身(ジュラルミン刀)は「パシャーン」といい音がし、火花が散ることもあったと語っている。夏八木五社お互い下町育ちで、「なっちゃん」「五社亭」と呼び合う仲になっていった。 それまで様式美的な殺陣とは対極的リアル感表現していく五社演出殺陣流儀学んだ八木は、撮影時竹光ではあったものの力加減身の要領でやったため、斬られ役竹光折ってしまい相手ケガさせてしまうこともあったという。 その後1969年昭和44年)にフジテレビ映画製作乗り出すこととなり、多額の製作費を使った映画監督任されることとなった五社は、フジ製作第1作目御用金』、第2作目人斬り』のアクション時代劇大成功させた。2作とも興行成績ベスト10ランクインし、五社映画界ヒットメーカー位置づけられるようになった

※この「『三匹の侍』成功以降」の解説は、「五社英雄」の解説の一部です。
「『三匹の侍』成功以降」を含む「五社英雄」の記事については、「五社英雄」の概要を参照ください。

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