『三匹の侍』成功以降
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五社は、入社2年目の編成部員の白川文造と共に企画を拡げていき、1963年(昭和38年)のテレビ時代劇『三匹の侍』で、丹波哲郎のほか、平幹二朗と長門勇をキャスティングした。当時、長門は浅草のストリップ小屋でコントをしながら下積み生活をしていた無名の役者であった。 『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金属音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた。映画のようなカメラワークやロケが望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回りを演出するため工夫されたこうした「効果音」の演出は、五社が初めて時代劇で編み出したものであった。 激しいアクションのテレビ時代劇『三匹の侍』の全26話は高視聴率を保ち続け、大成功を収めた。翌1964年(昭和39年)には映画版『三匹の侍』も製作された。この映画は、丹波哲郎が創設した「さむらいプロダクション」が製作に乗り出し、松竹の京都撮影所で撮影された。当時、映画業界人は、テレビの人間を「紙芝居屋」と見下げていた。 松竹のスタッフはテレビ局のディレクターの五社に反感を持ち、様々な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社と次第に打ち解けていった。この頃、五社は出かける前に「やるぞみておれ」という歌詞の『出世街道』のレコードを毎朝聴いていたという。映画『三匹の侍』はテレビ局出身初の映画監督作品となったが、当時の映画ジャーナリズムから黙殺された。 しかし衰退の映画会社にとって五社の演出力は魅力だった。当時任侠路線に進んでいた東映は、その路線変更の会社の方針に反抗する中村錦之助のために、巨匠ではない五社を起用し『丹下左膳 飛燕居合斬り』など低予算の時代劇を製作した。同じく東映製作の時代劇『牙狼之介』『牙狼之介 地獄斬り』では、五社は俳優座の夏八木勲を抜擢して西部劇風に演出した。 フジテレビの屋上で殺陣の特訓稽古をつけられた夏八木は当時を振り返り、刃引きはしてあるものの重量は真剣と同じ鉄身(ジュラルミン刀)は「パシャーン」といい音がし、火花が散ることもあったと語っている。夏八木と五社はお互い下町育ちで、「なっちゃん」「五社亭」と呼び合う仲になっていった。 それまでの様式美的な殺陣とは対極的なリアル感を表現していく五社演出の殺陣の流儀を学んだ夏八木は、撮影時は竹光ではあったものの力加減が鉄身の要領でやったため、斬られ役の竹光を折ってしまい相手をケガさせてしまうこともあったという。 その後、1969年(昭和44年)にフジテレビが映画製作に乗り出すこととなり、多額の製作費を使った映画の監督を任されることとなった五社は、フジ製作第1作目『御用金』、第2作目『人斬り』のアクション時代劇を大成功させた。2作とも興行成績ベスト10にランクインし、五社は映画界のヒットメーカーに位置づけられるようになった。
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