王構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 08:18 UTC 版)
王 構(おう こう、1245年 - 1307年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は肯堂。東平府須城県の出身。
生涯
王構の父の王公淵は金末の混乱期に育ち、兄3人が戦乱から逃れるため家を離れたが、王公淵のみ家族の墳墓を守るため留まり、家を残すことができたとの逸話が伝えられている[1]。王構は幼少の頃より聡明なことで知られ、学問に励んで東平行台(漢人世侯の厳氏支配下の東平地方を統治する機関)の掌書記に抜擢された[2]。
1274年(至元11年)には翰林国史院編修官の地位を授かり、南宋の首都の臨安が陥落した時には三館図籍・太常天章礼器儀仗を接収する役目を担っている[3]。
1276年(至元13年)秋に王構は朝廷に戻り、応奉翰林文字の地位に遷った。1281年(至元18年)にはコルゴスンを首班とする司徒府が成立、王構も司徒府の司直に任じられた[4]。この時の司徒府はアフマド・ファナーカティーが首班であった尚書省に対抗するものと位置づけられており、「丞相府」とも呼ばれる政治の中心となっていた[5]。1282年(至元19年)春、アフマドの暗殺事件が起こると、事態の収集に務めたコルゴスンは中書右丞相に抜擢され、王構はその側近として庶務に従事したという[6]。しかし、コルゴスンが失脚した後は、淮東提刑按察副使、侍御史、翰林侍講学士などの職を務めた[7]。
1294年(至元31年)にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、学士として『世祖実録』の編纂に携わった。実録が完成すると参議中書省事の地位に移ったが、まもなく病により東平に帰った。それからしばらくして済南路総管に抜擢され、民を苦しめる王族の従者を北境に移したとの逸話がある。1307年(大徳11年)にクルク・カアン(武宗カイシャン)が即位した後、再び国史の編纂に携わるために翰林学士承旨に任命されたが、それからまもなく病により63歳にして亡くなった[8]。
息子には南台御史中丞の地位にまで至った王士熙、淮西廉訪司僉事となった王士点らがいた[9]。
脚注
- ^ 『元史』巻164列伝51王構伝,「王構字肯堂、東平人。父公淵、遭金末之乱、其兄三人挈家南奔、公淵独誓死守墳墓、伏草莽中、諸兄呼之不出、号慟而去、卒得存其家、而三兄不知所終」
- ^ 『元史』巻164列伝51王構伝,「構少穎悟、風度凝厚。学問該博、文章典雅、弱冠以詞賦中選、為東平行台掌書記。参政賈居貞一見器重、俾其子受学焉」
- ^ 『元史』巻164列伝51王構伝,「至元十一年、授翰林国史院編修官。時遣丞相伯顔伐宋、先下詔譲之、命構属草以進、世祖大悦。宋亡、構与李槃同被旨、至杭取三館図籍・太常天章礼器儀仗、帰于京師。凡所薦抜、皆時之名士」
- ^ 櫻井2000,103-104
- ^ 櫻井2000,116/121
- ^ 櫻井2000,116/121
- ^ 『元史』巻164列伝51王構伝,「十三年秋、還、入覲、遷応奉翰林文字、陞修撰。丞相和礼霍孫由翰林学士承旨拝司徒、辟構為司直。時丞相阿合馬為盗撃死、世祖亦悟其姦、復相和礼霍孫、更張庶務、構之謀画居多。歴吏部・礼部郎中、審囚河南、多所平反。改太常少卿、定親享少廟儀注。擢淮東提刑按察副使、召見便殿、親授制書、賜上尊酒以遣之。尋以治書侍御史召。属桑哥為相、俾与平章卜忽木検覈燕南銭穀、而督其逋負。以十一月晦行、期歳終復命。明年春還、宿盧溝駅、度逾期、禍且不測、謂卜忽木曰『設有罪、構当以身任之、不以累公也』。会桑哥死、乃免。有旨出銓選江西。入翰林、為侍講学士。世祖崩、構撰諡冊」
- ^ 『元史』巻164列伝51王構伝,「成宗立、由侍講為学士、纂修実録、書成、参議中書省事。時南士有陳利便請搜括田賦者、執政欲従之。構与平章何栄祖共言其不可、辯之甚力、得不行。以疾帰東平。久之、起為済南路総管。諸王従者怙勢行州県、民莫敢忤視、構聞諸朝、徙之北境。学田為牧地所侵者、理而帰之。官貸民粟、歳饑而責償不已、構請輸以明年。武宗即位、以纂修国史、趣召赴闕、拝翰林学士承旨、未幾、以疾卒、年六十三。構歴事三朝、練習台閣典故、凡祖宗諡冊冊文皆所撰定、朝廷毎有大議、必咨訪焉。喜薦引寒士、前後省台・翰苑所辟、無慮数十人、後居清要、皆有名于時」
- ^ 『元史』巻164列伝51王構伝,「子士熙、仕至中書参政、卒官南台御史中丞。士点、淮西廉訪司僉事、皆能以文学世其家」
参考文献
- 王構のページへのリンク