徐州攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)
4月、中国広西軍は山東省台児荘で日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ[要出典]、中国の民衆は非常に喜んだ。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し、1938年4月7日 - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して徐州を攻略するよう(徐州会戦)下命した。5月10日、日本軍、廈門を占領。5月15日、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった。5月19日 - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領。 5月20日 - 中国軍機2機が九州へ飛来してビラ散布。 5月26日 - 近衛内閣改造によって6月3日には中国戦線の板垣征四郎が陸軍大臣、次官に東条英機関東軍参謀長が起用され、中央政府に関東軍勢力が入った 。関東軍は華北分離をめざし、また蔣介石への不信を持っていたが、宇垣一成外務大臣は蔣介石を高く評価しており、対中観が対立していた 。宇垣一成外務大臣は香港の中村豊一領事に、国民党孔祥熙の秘書喬輔三との和平工作(宇垣工作)を6月から9月まで進行させた。
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