徐州への進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:24 UTC 版)
中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、5月5日に第9師団と第13師団に前進を命令、徐州作戦を発動した。畑大将は、第2軍が苦戦していることを知ると南京警備の第3師団にも出撃を命令した。これらの師団を支援するために、佐藤支隊が江蘇省阜寧を攻略し(5月7日)、坂井支隊が安徽省廬州を攻略した(5月14日)。 第5戦区司令長官・李宗仁は、中支那派遣軍が日本の主攻部隊だと判断していた。西方の隴海線を切断しようとする日本軍に対し、中国軍の配置は台児荘・沂州方面に偏っており、李宗仁は部隊の配置転換を急がせた。中支那派遣軍の畑大将は、この動きを「退却」と判断して第9、第13師団に急進を命令した。 最左翼を北上する第13師団は、戦車第1大隊を基幹に岩仲挺進隊(岩仲義治大佐)を編成し、中国軍の退路遮断(隴海線爆破)を命じた。5月12日に岩仲挺進隊は永城を占領、その後は直協機に誘導されて北上し韓道口を攻撃した。14日、中国軍が韓道口で牽制されている隙に、挺進隊は汪閣付近の隴海線鉄橋を爆破した。翌日、第16師団から派遣された今井支隊(今井俊一大佐・戦車第2大隊基幹)も鉄橋付近の3箇所を爆破した。 5月16日、李宗仁は徐州を放棄する決意を固め、第5戦区軍を5つの兵団(魯南・隴海・淮北・淮南・蘇北)に改編した。この5兵団にそれぞれ転進地区を指定し退却を命令、第59軍(張自忠・5個師)は徐州周辺に配置して主力の撤退を援護させた。中国軍主力は徐州から南東に向かって江蘇省北部の湖沼地帯に退却した後、日本軍の包囲網を突破して西方に脱出した。躊躇せず徐州を放棄したことにより、損害は上海-南京戦のような全面的潰走に比べ遥かに少なく済んだ。 第13師団は他の師団以上の速度で強行軍を続け、5月17日、歩兵第65連隊は徐州西南西の覇王山(第59軍第21師守備)を急襲し山頂を奪取した。18日、第3師団は宿県(徐州南方)を攻撃し、第9師団は蕭県の第180師を敗走させた。5月19日、歩兵第65連隊と岩仲戦車隊は無人となった市街に突入し、「徐州一番乗り」をはたした。5月25日、北支那方面軍司令官・寺内寿一大将と中支那派遣軍司令官・畑俊六大将がそろって徐州入城式をおこなった。中国軍主力を取り逃がした日本軍は、その後追撃態勢に入った。
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