北伐と共産党粛清とは? わかりやすく解説

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北伐と共産党粛清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:45 UTC 版)

夏斗寅」の記事における「北伐と共産党粛清」の解説

1926年民国15年)夏、夏斗寅国民革命軍への加入宣言し、鄂軍第1師師長に任ぜられて唐生智率い第8軍指揮下に入った。夏は長沙武昌攻略呉佩孚軍の掃討貢献している。12月、鄂軍第1師が独立14師に改編されたが、引き続き夏が師長務め宜昌駐屯した。1927年民国16年4月蔣介石上海クーデター四・一政変)を起こすと夏はこれに追随し5月15日宜昌周辺大規模な共産党員粛清敢行している。しかしこの行動依然として容共であった武漢国民政府激怒させ、武漢側が派遣してきた葉挺率い討伐軍に夏は敗北安慶安徽省)に逃れたこの際に夏は蔣と連絡をとり、新編第10軍軍長昇進している。 同年8月北京政府側の孫伝芳南京郊外龍潭反攻目論んだため夏斗寅急行し力戦して孫軍撃退し、更に徐州攻略でも軍功をあげた。9月第10軍第27軍改組されたが引き続き夏が軍長務め、さらに徐州戒厳司令兼任している。翌1928年民国17年1月、夏の第27軍第3縦隊編入され済南攻略従事したが、済南事件勃発のため撤退迂回して天津進軍した10月国民革命軍全体軍縮に伴い、夏の第27軍は第13師に縮編されたが、夏が引き続き師長となっている。 1929年民国18年3月蔣桂戦争勃発すると、夏斗寅湖北省東部急行し新広西派新桂系)の胡宗鐸軍を撃破、胡を下野追い込む軍功をあげている。5月、夏は湖北省警備司令兼任した同年12月鄭州駐屯していた唐生智安徽省駐屯していた石友三が反蔣の挙兵を行うと、夏は第13軍軍長に任ぜられて唐軍攻撃し翌年1月、唐を下野追い込んだ。まもなく夏は武漢警備司令に任ぜられている。翌1930年民国19年)の中原大戦でも夏は曲阜済南など山東省方面戦線で反蔣軍と戦った1931年民国20年1月、鄂豫皖革命根拠地紅軍討伐従事したが、このときは紅軍反撃のために敗北喫している。

※この「北伐と共産党粛清」の解説は、「夏斗寅」の解説の一部です。
「北伐と共産党粛清」を含む「夏斗寅」の記事については、「夏斗寅」の概要を参照ください。

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