北伐と共産党粛清
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1926年(民国15年)夏、夏斗寅は国民革命軍への加入を宣言し、鄂軍第1師師長に任ぜられて唐生智率いる第8軍指揮下に入った。夏は長沙・武昌の攻略や呉佩孚軍の掃討に貢献している。12月、鄂軍第1師が独立第14師に改編されたが、引き続き夏が師長を務め、宜昌に駐屯した。1927年(民国16年)4月、蔣介石が上海クーデター(四・一二政変)を起こすと夏はこれに追随し、5月15日に宜昌周辺で大規模な共産党員粛清を敢行している。しかしこの行動は依然として容共であった武漢国民政府を激怒させ、武漢側が派遣してきた葉挺率いる討伐軍に夏は敗北、安慶(安徽省)に逃れた。この際に夏は蔣と連絡をとり、新編第10軍軍長に昇進している。 同年8月、北京政府側の孫伝芳が南京郊外の龍潭へ反攻を目論んだため夏斗寅は急行し、力戦して孫軍を撃退し、更に徐州攻略でも軍功をあげた。9月、第10軍は第27軍に改組されたが引き続き夏が軍長を務め、さらに徐州戒厳司令も兼任している。翌1928年(民国17年)1月、夏の第27軍は第3縦隊に編入され、済南攻略に従事したが、済南事件勃発のため撤退、迂回して天津へ進軍した。10月、国民革命軍全体の軍縮に伴い、夏の第27軍は第13師に縮編されたが、夏が引き続き師長となっている。 1929年(民国18年)3月、蔣桂戦争が勃発すると、夏斗寅は湖北省東部へ急行して新広西派(新桂系)の胡宗鐸軍を撃破、胡を下野に追い込む軍功をあげている。5月、夏は湖北省警備司令を兼任した。同年12月、鄭州に駐屯していた唐生智と安徽省に駐屯していた石友三が反蔣の挙兵を行うと、夏は第13軍軍長に任ぜられて唐軍を攻撃し、翌年1月、唐を下野に追い込んだ。まもなく夏は武漢警備司令に任ぜられている。翌1930年(民国19年)の中原大戦でも夏は曲阜や済南など山東省方面の戦線で反蔣軍と戦った。1931年(民国20年)1月、鄂豫皖革命根拠地の紅軍討伐に従事したが、このときは紅軍の反撃のために敗北を喫している。
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