北伐の最中の粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/01 00:21 UTC 版)
同年7月、王天培は国民政府から国民革命軍第10軍軍長に任命された(弟の天錫も同軍副軍長兼第28師師長となる)。同時に国民革命軍第9軍軍長に任命された彭漢章とともに、北伐に参戦する。第9軍と第10軍は湖南省で沈鴻英を撃破すると、12月には北京政府の長江上遊司令盧金山と四川軍指揮官楊森の連合軍を撃破した。まもなく国民革命軍第12軍軍長袁祖銘と彭は、蒋介石の指示を受けた国民革命軍第8軍軍長唐生智に粛清されたが、王天培は引き続き北伐に参加している。 1927年(民国16年)5月、王天培は北伐軍第3路前敵総指揮に任命され、蒋介石、李宗仁の指揮の下、中国東部の戦線で張宗昌らの直魯聯軍と激戦を展開した。王は直魯聯軍を圧倒する勢いだったが、友軍との連携に支障が生じたために前線で次第に孤立していく。7月には徐州が陥落して、王も退却を余儀なくされた。蒋の命令により、引き続き徐州奪回作戦にも参加し、王率いる軍は善戦したが、他の軍が敗北して作戦は失敗に終わる。同年8月10日、王天培は南京において突然拘留された。9月2日、蒋介石の命を受けた何応欽・白崇禧の指示により、徐州失陥等の罪を問われて杭州で処刑された。享年40。 この処分については、当時の世論からも疑義を持たれ、『武漢晩報』、『湘江快報』などの地方紙は、蒋介石に対する批判的報道を展開した。また李宗仁も、蒋こそが指揮を誤ったのであり、王天培は蒋の「贖罪の山羊(スケープゴート)」にされただけである旨を書き残している。1931年(民国20年)、反蒋介石派の広州国民政府は、王の名誉回復を行った。
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