北伐を防ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 07:16 UTC 版)
嘉平元年(249年、曹爽誅殺後に改元)、都督に昇進した郭淮の後任として雍州刺史となり、奮威将軍を与えられた。 同年、蜀漢の姜維が麹山に2つの城を築き、牙門将句安・李歆らに守備を任せ、自身は羌族と共に魏の諸城へ侵攻してきた。征西将軍の郭淮は、陳泰に対応策の相談を行った。陳泰は、益州から麹山までの道が険阻で兵糧の輸送手段に乏しく、また姜維が羌族(当時、蜀軍の労役に駆り出されていた)の人心を得ていないことを指摘し、麹山への輸送路と水路を断って兵糧攻めを行なうことを進言した。また、援軍が来たとしても山道が険阻で容易に兵を動かせる場所ではないため、連携も取りづらいだろうと合わせて述べた。郭淮はそれらの進言を容れ、陳泰に討蜀護軍の徐質、南安太守の鄧艾らを統率させた。陳泰は、軍を進めて敵軍を包囲し、その運送路と城外の流水を断ち切った。句安らが戦いをいどんでも応戦を許さなかったので、蜀の兵士は困窮し、食糧を配分し水の代わりに雪を集めて月日を引き伸ばした。その後、姜維は予想どおり救援のため到来し、牛頭山から出て陳泰と対峙した。 陳泰は、各軍に各自の砦を固めて戦いを交えてはならぬと命令した。使者をやって郭淮に進言し、自分は南方に進んで白水を渡り、水路に沿って東へ向かうつもりだから、郭淮は牛頭へ向かい、その退路を断ち、句安らだけでなく姜維も合わせて捕えるべきだと述べた。郭淮はその策に賛成し、諸軍をひきいて洮水に軍を進めた。姜維は恐れて逃走したので、句安らは孤立無援となり、かくて全員降伏した。 嘉平4年(252年)、并州と連携して蛮族を討ちたいと司馬師に申し入れ、容れられた。だが雁門郡と新興郡において、徴兵を嫌った民の反乱を招いた。司馬師は承認した自らの過失であるとし、陳泰の責任は問わなかった。 嘉平5年(253年)、姜維が数万の軍勢を率いて北伐を敢行し、南安を包囲した。陳泰は郭淮と共に、関中の軍を率いて救援に向かった。姜維は増援の来襲を知ると撤退した。
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