北伐と蜀の衰退とは? わかりやすく解説

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北伐と蜀の衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 21:54 UTC 版)

姜維」の記事における「北伐と蜀の衰退」の解説

253年費禕が魏の降将郭循刺殺されると、姜維費禕の後を受け軍握り数万の兵を率いて北伐敢行した。翌年、魏の李簡寝返り乗じて狄道県をはじめ三県を制圧し徐質討ち取った。さらにその翌年には、魏から亡命してきた夏侯覇とともに魏の王経を洮水の西で大破した王経軍の死者数万人に及んだという。この功績により翌256年大将軍昇進した。しかし同年胡済約束破り後詰現れなかったため、段谷で魏の鄧艾大敗し段谷の戦い)、国力大い疲弊させた。姜維諸葛亮先例倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格させる事で敗戦責任取っている。257年、魏の諸葛誕寿春反乱起こした諸葛誕の乱)のに乗じて魏に攻め入った勝てず、翌258年諸葛誕敗死聞き撤退した同年大将軍復帰したこうしたことから国内では北伐への批判高まりこの頃譙周陳祗との討論元に、『仇国論』という北伐無謀さ批判した著書をまとめた。また、朝廷内で数少ない北伐推進派だった陳祗同年没し姜維孤立したこのため姜維北伐一時中断し、代わりに漢中守備に手をつけた。姜維は「諸陣営交錯させて守備する従来漢中防衛法は、防御力は高いが大勝期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢城楽城の二城に集中させた上で関所守り重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」と建議したその結果胡済漢寿まで退かせ監軍王含楽城を守らせ、蔣斌漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門武城建昌・臨遠に防御陣を築いた姜維長年に亘り軍事面のみに力を注ぎ一切内政顧みなかった。このため劉禅黄皓重用し酒色溺れてしまい、国政混乱した262年4年振り北伐敢行したが、鄧艾撃退された。涼州出身姜維は、蜀漢朝廷内では孤立しがちであったため、同年黄皓閻宇結託し姜維の軍没収画策した際には、当時朝政担っていた諸葛瞻董厥もこれに同調し益州刺史任じて成都留めかせようしたほどであった孫盛異同記』)。姜維黄皓を除くよう劉禅嘆願した聞き入れられず、また身の危険感じたため、これ以後成都に戻る事が出来なくなったその際に、姜維趙雲ら蜀設立功労者対し、侯の諡を送るべきと劉禅進言した。設立功労者らには侯の諡が送られた。

※この「北伐と蜀の衰退」の解説は、「姜維」の解説の一部です。
「北伐と蜀の衰退」を含む「姜維」の記事については、「姜維」の概要を参照ください。

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