北伐と蜀の衰退
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253年、費禕が魏の降将の郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。翌年、魏の李簡の寝返りに乗じて狄道県をはじめ三県を制圧し、徐質を討ち取った。さらにその翌年には、魏から亡命してきた夏侯覇らとともに魏の王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだという。この功績により翌256年に大将軍に昇進した。しかし同年、胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏の鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格させる事で敗戦の責任を取っている。257年、魏の諸葛誕が寿春で反乱を起こした(諸葛誕の乱)のに乗じて魏に攻め入ったが勝てず、翌258年に諸葛誕の敗死を聞き撤退した。同年、大将軍に復帰した。こうしたことから国内では北伐への批判が高まり、この頃に譙周が陳祗との討論を元に、『仇国論』という北伐の無謀さを批判した著書をまとめた。また、朝廷内で数少ない北伐推進派だった陳祗も同年に没し、姜維は孤立した。 このため姜維は北伐を一時中断し、代わりに漢中の守備に手をつけた。姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢城・楽城の二城に集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」と建議した。その結果、胡済を漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、蔣斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。 姜維は長年に亘り軍事面のみに力を注ぎ、一切内政を顧みなかった。このため劉禅が黄皓を重用して酒色に溺れてしまい、国政は混乱した。 262年、4年振りに北伐を敢行したが、鄧艾に撃退された。涼州出身の姜維は、蜀漢の朝廷内では孤立しがちであったため、同年に黄皓が閻宇と結託し姜維の軍権没収を画策した際には、当時朝政を担っていた諸葛瞻や董厥もこれに同調し、益州刺史に任じて成都に留め置かせようとしたほどであった(孫盛『異同記』)。姜維は黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入れられず、また身の危険も感じたため、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。その際に、姜維は趙雲ら蜀設立の功労者に対し、侯の諡を送るべきと劉禅に進言した。設立の功労者らには侯の諡が送られた。
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