北伐に参加する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/30 16:56 UTC 版)
中国南部をあらかた占領した朱元璋は、1368年、元朝を攻撃するため、大軍を北に向かわせた。康茂才もこれに従軍し、汴、洛の占領に貢献した。その後は陝州の防御を命じられ、兵站確保や渡軍用の浮橋造営にあたった。 さらに1370年にも従軍し、定西、興元(漢中市)を下したが、その帰路に死去した。死後、蘄国公に追封され、武康の名を諡られた。 息子の康鐸は、父の功のため蘄春侯、1500石を与えられたが、傅友徳と雲南地方へ従軍中に数え23歳で死んだ。蘄国公に追封され、忠愍の名を諡られた。 孫の康淵は幼かったため、すぐには後を継ぐことはできなかったが、弘治の末に康茂才の録千戸を譲り受けた。
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