北伐から日中戦争勃発前
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1926年、国民革命軍に加わり、東路軍総指揮部(司令:何応欽)少校参謀、中校科長。北伐に参加。営長、団長を歴任。1928年の第2次北伐では軍事委員会軍械処統計科長。 北伐後は呉淞要塞司令部参謀長を経て上海兵工廠軍械科長(兵器主任)。金九の要請で爆弾を製造し提供したこともあり桜田門事件で使用された手榴弾、上海天長節爆弾事件で使用された爆弾は金弘壹が金九に提供した物だった。 1931年に満州事変が起こると臨時稽査長を兼任して日本の動向を探った。 1932年、上海事変勃発により上海兵工廠が後方に疎開され、第19路軍後方諜報科長を兼任する。フランス租界に滞在し金九、安昌浩らと連絡を取りながら朝鮮人を動員して日本軍の後方攪乱や情報収集を行った。そして虹口埠頭に接岸していた出雲に上海派遣司令部が同居していることを察知、出雲を爆破しようとしたが失敗に終わる。また金九と共に日本軍の飛行機格納庫と軍需倉庫の焼却を企て、時限式の焼夷弾を兵站機関に雇われている朝鮮人に仕掛けさせる計画を立てたが爆弾が出来上がる前に停戦となったので、計画は沙汰止みになった。 上海天長節爆弾事件により、日本の捜査が及ぶと王逸曙に改名して南京へ行き、城外にある工兵学校の副官処長となる。その後も金九と密接に連絡していたが、1935年9月頃に金九の専横を警告したことが原因で喧嘩となり、金九とは距離を置いたという。 1932年10月、朝鮮革命軍事政治幹部学校の設立を後援。 1933年2月、江西紅軍の囲剿に参加。第2路軍総指揮部上校参謀、第2路軍第102師参謀主任を歴任。剿共作戦を終えると軍需設計委員に任命。軍需設計委員は、今後の戦争に備えてその準備作業を計画する役職であり、軍需署は東南臨海地域の軍需産業を西部内陸部に移転する計画を策定していた。 1934年から1938年まで中央陸軍軍官学校の教官を務める。1934年から洛陽分校韓人特別班に入校した朝鮮人生徒、1937年12月から星子県特別訓練班に入校した朝鮮民族革命党(朝鮮語版)の青年党員を育成した。これらの生徒は後に光復軍や朝鮮義勇隊の中核要員となった。 1937年7月、廬山暑期訓練団に参加。軍事組第1総隊第1大隊に配属され、7月5日から17日まで訓練を受けた。また訓練を受ける他に経理処副処長を兼任し、訓練修了後もしばらくは経理処に残った。
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