反英運動への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:21 UTC 版)
「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の記事における「反英運動への参加」の解説
ナセルは1918年、エジプト北部・地中海沿岸の都市アレクサンドリア東端のバコス(英語版)地区において、郵便局長アブドゥル=ナセル・フセインの息子として生まれた。父は上エジプトのアシュート近郊ベニ・ムル(英語版)の出身である。またベニ・ムルの住民はアラブ支族バヌ・タミム(英語版)の末裔を自称しており、彼らはエジプト人と言うよりもアラブ人というアイデンティティを持っていた。ナセルの一族は曽祖父の代からベニ・ムルに移り住んだ中流自作農で、祖父フセインは当時まだ難しかったメッカ巡礼を果たし、クッターブ(寺子屋)を設立するなど地元の名士であった。一方、母ファヒマはアレクサンドリアの出身で、その父は有力な請負師であった。但し、ナセルは上エジプトのミニヤー県マッラウィー(英語版)出身である。両親のような上エジプト出身者は「サイーディ」と呼ばれ、強い忠誠心、寛大さ、男らしさ、率直さなどを持っているとしてそれを誇りにする気質を持っており、ナセルも自らをサイーディと自覚していた。 当時のエジプトはオスマン帝国から独立したものの、イギリスの保護国となっていた。1921年にアシュート、1923年にはミヌーフィーヤ県のカタトバ(英語版)に移り、同年、現地の小学校に進学。8際の時、両親の意向により首都カイロでワクフ省職員として勤めていた叔父ハリールに預けられ、それと同時に市内のガマリーヤのナハシン小学校に転校する。当時のナーセルは、読書に浸り、ネルソンなどの英雄に憧れる反面、命令する者に対し誰彼問わず反発をあらわにする少年であったという。 ハリールは1919年に反英組織に参加した事で投獄されており、休日にはナセルに獄中生活の事をしばし語る事があった。それはナセルの少年らしいヒロイズムをますます搔き立てた。一方、1928年の冬に母が弟シャウキーの出産で死亡した。しかし父は母に懐いていたナセルを気遣い、その死を伝えようとはしなかった。翌年夏、帰郷して初めてそれを知ったナセルは父に激しく憤り、しばらく父との間に溝が生まれた。ネルソンや叔父に向けられたヒロイズムと父をはじめとする権威への反発は、ナセルの後年の民族運動の基盤となった。元々、陽気な性格ではなかったナセルは、母の死を機に一層憂わし気で控えめとなり、容易に内心を明かさない陰影の濃い人格が形成されていった。 同年、アレキサンドリアのアッタレネ小学校に転校するが、母の死を引きずるナセルは2回留年した。1930年春、カイロで中学入学資格を得る。10月に新学期が始まるまでの学年休み中、アレキサンドリアの母方の祖父母宅にいたナセルは極右政党青年エジプト党の前身となる団体主催のデモに参加し、一晩拘留される。叔父の影響を恐れた父によりヘルワンの寄宿学校に転学させられるが、マラリアに罹患し、3度目の落第となる。翌年、英語以外の科目で及第点をとったためアレキサンドリアのラース・アッ・ティン校に転入学するが、今度は映画館に入り浸るようになり、4度目の落第を受け中退。1933年、父がカイロのユダヤ人地区の郵便局長となった事でアル=ナフド・アル=マシーラ中学校に入学。当時、学業の不調や冷え切った家庭環境に嫌気がさしたナセルは、モスクで時間を潰す鬱屈とした日々を送っていた。そんな中、青年エジプト党の入党勧告を受け、エジプトやアラブ諸国の解放を目指す民族運動に本格的にのめり込んで行く。翌年、イスマーイール・セドキー(英語版)首相のエジプト憲法(英語版)破棄をめぐる抗議デモに参加、党員の労働者や学生たちと共同でピラミッドの近くに青年キャンプを構築しようとしていたところ、無許可デモを理由に3日間拘留される。また、バルフォア宣言抗議ゼネストにも毎年参加した。 当時のナセルが政治活動の他に熱中したのは、演劇である。中学の演劇部に所属し、いずれも興味を持ったのは政治劇であった。特に、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」ではアントニウスの役を熱演し、教員や生徒、父をも感激させたという。こうした指導力もあって、4年時の成績では本来及第点が2科目だけなのを英語以外すべて及第点にしてもらったという。 1935年夏、ナセルは青年エジプト党指導者アフメド・フサイン(アラビア語版)と面会を果たすが、収益問題にとらわれたナセルの態度に失望し、すぐさまワフド党に鞍替えする。11月12日にはサー・サミュエル・ホーア(英語版)外務大臣のエジプト憲法復活拒否に抗議する学生デモに参加。ナセルは母校での中心的存在となり、校内でアジ演説を行ってデモ行進を始め、道筋に当たる各中学校を回り参加者を増やしていった。ローダ島からカイロ大学へ向かうところで保安隊と衝突、保安隊長ロータスに投石を行ったことで保安隊側が発砲、数名が死亡しナセルも銃弾が額をかすめ傷を負ったが、その場にいた老婆の機転で逃げおおせた。翌日、ナセルの名前は新聞に掲載された。学校側はナセルを退学処分とするが、学生たちの反対運動により復学。しかし事態を案じた父は、叔父と相談しエル=マハッラ・エル=コブラの中学校に転学させた。ナセルはここで一転して学業に専念し、大学入学資格試験を得る。
※この「反英運動への参加」の解説は、「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の解説の一部です。
「反英運動への参加」を含む「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の記事については、「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の概要を参照ください。
- 反英運動への参加のページへのリンク