反蒋介石派としての活動
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1924年(民国13年)6月、王懋功は大本営参軍に移り、翌1925年(民国14年)初めに黄埔軍官学校入伍生隊総隊長となった。同年4月、潮汕校本部行営主任となる。8月、国民革命軍司令部参謀長兼第2師師長に抜擢され、その翌月には国民政府広州衛戍総司令代理を務めた。しかし1926年(民国15年)2月、王は突然反逆罪に問われて各職を免ぜられてしまう。まもなく王はソビエト連邦へ赴き、フルンゼ軍事アカデミーで学習した。 王懋功は翌1927年(民国16年)に帰国し、1928年(民国17年)には閻錫山率いる第3集団軍で第11軍軍長兼騎兵第8師師長に任命される。その後、汪兆銘の下で侍従武官兼軍事顧問となり、反蒋介石派の指導者たちとの連絡役を務めた。北平で開かれた反蒋派の中国国民党中央党部拡大会議や中原大戦にも参加している。さらに中原大戦敗北後に天津の租界で成立した軍事委員会にも名を列ねるなど、徹底して反蒋活動に従事した。
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