西南派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:37 UTC 版)
1930年(民国19年)、鄒魯は反蔣介石派が開催した北平拡大会議に参加したが、反蔣派が敗北すると天津に逃げ込んだ。1931年(民国20年)、胡漢民が蔣との政治的対立の末に拘禁される。そのため、広州に反蔣派の国民党中央・国民政府が樹立され、鄒は広州側に参加した。 同年9月の満州事変(九・一八事変)後、南京と広州は大同団結となり、広州に中央党部西南執行委員会と国民政府西南政務委員会が成立した。鄒は両方の委員となっている。鄒はその後も胡を支え、広東省の陳済棠などと連携して反蔣の運動を続けている。 1935年(民国24年)11月、鄒魯は蔣介石と和解した。これ以降は反蔣活動に参加することは無く、日中戦争でも国共内戦でも蔣を支持し続けている。1949年(民国38年)、台湾に逃れた。1951年(民国40年)、淡江大学を創立し、同大学校歌も作詞している。 1954年(民国43年)2月13日、台北で死去。享年70(満68歳)。
※この「西南派として」の解説は、「鄒魯」の解説の一部です。
「西南派として」を含む「鄒魯」の記事については、「鄒魯」の概要を参照ください。
- 西南派としてのページへのリンク