広西省政府主席となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 03:31 UTC 版)
12月、黄紹竑が蒋介石と和解して広西を去ると、黄旭初は護党救国軍第15軍軍長に任じられた。1931年(民国20年)3月には、国民革命軍護党救国軍第1方面軍総司令部政治委員会主席も兼ねた。これにより、黄紹竑を継ぐ形で、李宗仁・白崇禧に次ぐ新広西派内第3位の地位を得たことになる。 5月、広州非常会議が実施され、反蒋介石派が西南派として連合すると、黄旭初は広州国民政府政務委員会委員と広西省政府主席を兼任した。年末に、満州事変(九・一八事変)勃発に伴い、蒋介石と西南派が和解、大同団結する。黄は引き続き同省政府主席に留まる。翌年には中国国民党広西省党部執行委員も兼ねた。 広西省政府主席としての黄旭初は、李宗仁・白崇禧と協力して、「三自三寓」政策などの新広西派独自の政策を展開した。また、広西省内でイデオロギー教育のために結成された三民主義革命同志会においても政治委員会主任を務めている。 日中戦争(抗日戦争)勃発後は、抗日宣伝のために結成された広西建設研究会で、黄旭初は副会長兼政治部主任となった。日本軍が広西省にも侵攻してくると、黄は広西の民衆に徹底抗戦を呼びかけ、最終的にはその撃退に成功している。一方、共産党に対しても警戒心・敵愾心が強く、大々的な弾圧を展開した。
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