西南派としての活動、非業の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:04 UTC 版)
「唐紹儀」の記事における「西南派としての活動、非業の死」の解説
国民政府成立後の1929年(民国17年)、唐紹儀は中山県訓政委員会主席となる。1931年(民国20年)5月、汪兆銘(汪精衛)・孫科らの反蔣介石運動に加わり、汪らによる広州国民政府で常務委員に任ぜられた。 翌年1月、西南政務委員会が成立すると、唐は常務委員に任ぜられる。さらに同年3月には中山県長となった。しかし次第に広東の実力者である陳済棠と対立するようになる。1934年(民国23年)10月、陳から武力で脅迫された唐は各職を辞任し、上海に寓居した。 1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、唐紹儀は後方に移らず、上海にとどまった。また、親交のあった温宗尭から親日政権参加を勧められたが、唐はこれを拒否している。 翌年9月28日に、娘婿の岑徳広が土肥原賢二を伴って唐紹儀を訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加を求めたと見られる。しかし9月30日、日本に利用されることを恐れた軍統により、唐は自宅で暗殺された。享年79。
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