岑徳広
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 20:26 UTC 版)
岑徳広 | |
---|---|
![]()
『最新支那要人伝』(1941年)
|
|
プロフィール | |
出生: | 1895年[1][2][注 1] |
死去: | 1972年8月![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 政治家・官僚・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 岑德廣 |
簡体字: | 岑德广 |
拼音: | Cén DéGuǎng |
ラテン字: | Ts'en To-kuang |
和名表記: | しん とくこう |
発音転記: | ツェン トークアン(ツェン・ドゥーグアン) |
岑 徳広(しん とくこう、1897年〈光緒23年〉 - 1972年8月)は、中華民国の政治家・外交官・官僚。字は心叔[1][2][4]。チワン族(壮族)。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人であり、派閥としては周仏海らのCC派に属すると目された。後年、日中国交正常化の事前工作に関与している。清末民初の政治家・岑春煊の子で、同じく政治家である唐紹儀の娘婿でもある。
事績
初期の活動
日本に留学した後、イギリスのシンクタンクで研究員をつとめた。1922年(民国11年)8月23日に駐英大使館随員署理、1923年(民国12年)2月10日に梧州関監督兼広西省外交特派員、1924年(民国13年)9月11日に安慶造幣廠廠長を歴任している[5]。この他、ワシントン会議中国代表団随員、滇桂聯軍総司令部参議、善後会議議員などもつとめたとされる[1][4]。
1937年(民国26年)に日本軍が上海を占領した頃から、上海に在った岑徳広は周仏海の知恵袋的存在となる[6]。翌年9月28日に、岑は土肥原賢二を伴って義父の唐紹儀を訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加を求めたと見られるが、まもなく唐は軍統に暗殺された[7][注 2]。
親日政権での活動
1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、周仏海に従う形で岑徳広もこれに参加した。振務委員会委員長に特任され、第1期中央政治委員会延聘委員[注 3](以後4期務める)に任ぜられている[8]。1941年(民国30年)5月に清郷委員会(委員長:汪兆銘)委員[9]、同年8月に社会運動指導委員会(委員長:周仏海)委員[10]、1942年(民国31年)2月に時局策進委員会(委員長:汪兆銘)委員を兼任した[4]。
1943年(民国32年)1月、社会運動指導委員会と振務委員会が合併して社会福利部が新設され、丁黙邨が同部部長となる[11]。一方の岑徳広は、全国経済委員会秘書長に改任された[12]。1945年(民国34年)6月、中央政治委員会最高国防会議秘書長に任命された。8月、経理総監部総監となっている[4]。
日本敗北後、岑徳広は漢奸の罪に問われ、9月26日に南京で逮捕されたが[13]、後に香港への逃亡に成功した[14]。
日中国交正常化関連
中華人民共和国建国後、北京在住で旧知の章士釗との間で、岑徳広は交友を継続していた。同じく旧知で1968年に香港総領事に就任した岡田晃の依頼もあり、岑は章と連絡を取り合いながら、日中国交正常化の準備工作に関わっていたとされる[注 4]。
しかし1972年6月、佐藤内閣が事実上倒れ、岡田晃も香港総領事からブルガリア大使に転任すると聞いた岑徳広は、準備工作が無駄に終わったと悲嘆に暮れている。その失意もあってか、同年8月初頭に病没した[3]。享年78。
帰国直前の岡田晃は、岑徳広危篤の報を受けて駆け付けたが間に合わず、岑の亡骸に縋り付いて落涙したという。岡田によれば、岑の亡骸は薄暗い六畳一間ぐらいの一室に置かれ、岡田の他は1~2人しか立ち会わず、「誰一人として葬式を行うものもない」困窮ぶりだったという[3][注 5]。なお日中国交正常化そのものは、岑没後まもなく、田中内閣で実現した(1972年9月29日)。
注釈
- ^ 徐主編(2007)、653頁は、「1897年(光緒23年)生」としている。
- ^ この唐紹儀暗殺について森島守人は、軽挙妄動を控えるようにと周囲から諫言されていたにもかかわらず、土肥原賢二がそれらを無視した結果生じたものと批判・非難している(森島(1950)、149頁)。
- ^ 第2期以降は招聘委員。
- ^ この準備工作の詳細は、岡田(1983)、69-73頁、138-144頁、160-165頁、183-184頁に記載されている。
- ^ 中国語版Wikipediaは「1972年6月19日」死去、「6月23日」葬儀としているため、岡田の回想とは矛盾する(ただし、これを旧暦として新暦換算すれば、「1972年7月29日」死去、「1972年8月2日」葬儀となる)。中国語版Wikipedia記述の原典は不明。
出典
- ^ a b c d 東亜問題調査会編(1941)、94頁。
- ^ a b 藤田編(1986)、151頁。
- ^ a b c 岡田(1983)、183-184頁。
- ^ a b c d e 徐主編(2007)、653頁。
- ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:岑德廣」
- ^ 上海市地方志「法国式建築的経典之作:馬歇爾公館(太原別墅)」
- ^ 抗日戦争紀念網(2016)。
- ^ 『時事年鑑 昭和十七年版』時事通信社、696頁。
- ^ 「国府清郷委員会設置」『同盟旬報』5巻14号通号141号、昭和16年5月中旬号(30日発行)、同盟通信社、23頁。
- ^ 「国府、機構改革断行」『同盟旬報』5巻23号通号150号、昭和16年8月中旬号(30日発行)、同盟通信社、15-16頁。
- ^ 『日文国民政府彙報』第157号、民国31年1月18日、中国和文出版社、1-2頁。
- ^ 「国府人事異動」『同盟時事月報』7巻1号通号200号、昭和18年1月事項(2月14日発行)、同盟通信社、103頁。
- ^ 余ほか(2006)、1613頁。
- ^ 上海市地方志弁公室ホームページ記事。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。 ISBN 7-208-06486-5。
- 「法国式建築的経典之作:馬歇爾公館(太原別墅)」上海市地方志弁公室ホームページ ※Webアーカイブ
- 「軍統暗殺唐紹儀始末」抗日戦争紀念網、2016年7月21日
- 岡田晃『水鳥外交秘話 ある外交官の証言』中央公論社、1983年。
- 藤田正典編『現代中国人物別称総覧』汲古書院、1986年。
- 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀 一外交官の回想』岩波書院、1950年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
- 岑徳広のページへのリンク