反共路線へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:25 UTC 版)
1915年(民国3年)、陳其美が資金を集めて『民国日報』を創刊すると、葉楚傖が総編輯、邵力子が経理となる。葉は、皇帝を称した袁世凱に対してこれを非難する論陣を張った。その後、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、これを支持する文章を発表した。1923年(民国12年)に、柳亜子が創設した新南社に加入したが、五四運動を支持する柳と、消極的な葉との間で対立が発生している。 1924年(民国13年)1月の中国国民党第1回全国大会に参加し、葉楚傖は、中央執行委員、中央党部宣伝部部長等の要職に就いている。しかし、孫文の推進する三大政策に対しては、批判的な立場であった。孫文死後の1925年(民国14年)11月には西山会議派に参加し、反共姿勢をさらに明確にしている。上海に西山会議派が拠ると、葉は『民国日報』において、反共宣伝を行った。しかし、蔣介石による中山艦事件が発生すると、葉は西山会議派を離れて蔣につき、その側近となっている。 1927年(民国16年)4月12日の上海クーデターも支持し、翌年に蔣介石が国民党中央を再び掌握すると、葉楚傖は国民党中央宣伝部部長代理に任命された。1929年(民国18年)には、国民党中央党部秘書長に転じている。その後も、江蘇省政府主席、党中央宣伝委員会主任委員、立法院副院長等を歴任した。日中戦争期間中も国民大会代表選挙事務所総幹事などの職をつとめている。 1946年(民国35年)2月15日、上海にて病没。享年60(満58歳)。
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