反共活動の維持
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1927年(民国16年)の南京・武漢・上海合流後、張継は蔣介石を支持して国民政府で経歴を重ねていく。1928年(民国17年)10月、司法院副院長兼北平政治分会主席となり、翌年3月の第3回全国代表大会において中央監察委員に任命された。1931年(民国20年)12月、立法院院長に選出されたものの、実際に就任することなく翌年1月に辞任した。同年、西京籌備委員会委員長となり、1933年(民国22年)には国民党華北弁事処主任を務めた。 1937年(民国26年)2月、国民党5期3中全会において、宋慶齢・何香凝・馮玉祥らと、聯共の三大政策復活提案に一時は賛成しようとしたが、直前になって撤回、離脱した(代わりに李烈鈞がこの提案に参加している)。日中戦争終結後の1946年(民国35年)春に開かれた国民党6期2中全会では、(旧)政治協商会議の内戦回避を求める提案等に反発し、張継は、強固に反共の主張を続けてこれを国民党に受け入れさせなかった。張継らのこの政治行動は、国共内戦勃発の主要原因の1つともなっている。1947年(民国36年)、国史館館長となっている(1940年から国史館設立準備の主任委員を務めていた)。 同年12月15日、死去。享年66。
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