反共右派路線へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:34 UTC 版)
1923年(民国12年)に呉敬恒は帰国し、広州で孫文に合流した。1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会が開催されると、呉は中央監察委員に選出され、以後第6期まで連続してこの地位に選ばれている。同年11月、孫が北京に向かうと呉もこれに随従し、翌1925年(民国14年)3月の孫の逝去にも立ち会った。呉は北京で海外補習学校を創設し、国民党要人のために留学準備の学習を提供した。このとき、蔣介石の子・蔣経国も呉の下で学んでいる。 同年11月、国民党右派が北京で独自に1期4中全会を開き、いわゆる西山会議派を結成すると、呉敬恒もこれに賛同を示した。ところが呉や戴季陶は、汪兆銘ら国民党左派に対しても直ちに敵対姿勢をとらず、むしろ説得・交渉をすべきだとの穏健路線をとる。これに西山会議派内の強硬派が反発し、さらに戴が強硬派に殴打される事件が起きたため、呉と戴は憤然と派を離脱した。 1927年(民国16年)4月の上海クーデター(四・一二政変)には、呉敬恒は事前から蔣介石に協力した。南京に蔣派の国民政府が成立した際には、呉はその成立大会で反共演説を行っている。その後も呉は蔣介石を一貫して指示し続け、反蔣運動には言論で批判を加えたが、その一方で蔣から様々な要職を提示されても一切固辞した。また、中国語表記の改善には引き続き取り組んでおり、1930年(民国19年)には注音字母を改良して注音符号を創出し、1932年(民国21年)5月に『国音常用字彙』を刊行している。
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