反共期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:14 UTC 版)
「台韓関係」も参照 1948年8月15日に建国された大韓民国は、李承晩初代大統領の反共主義の影響もあって、1949年10月1日に中国共産党の毛沢東主席によって中華人民共和国が建国されたあと、中国国民党の蔣介石総統とともに台湾に逃れた中華民国と親交を深めた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、緒戦での首都ソウルの最初の陥落後、臨時首都釜山にまで追い詰められた李承晩政権はダグラス・マッカーサー司令官率いる国連軍の介入によって朝鮮民主主義人民共和国が統治していた38度線以北を北上し、1950年中に大韓民国国軍は一時中朝国境の鴨緑江にまで到達したが、毛沢東主席はアメリカ合衆国(中国語では美国)に抗して朝鮮民主主義人民共和国を援けるため(「抗美援朝」)に朝鮮戦争参戦を決断、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)はアメリカ軍主体の国連軍を38度線以南にまで押し戻し、一時中朝連合軍は国連軍が奪還した首都ソウルを再占領した。 1953年7月27日に中朝連合軍代表の南日大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・Jr(英語版)中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名されたあとも、大韓民国は反共主義から中華人民共和国と敵対した。中華人民共和国も1961年7月11日の中朝友好協力相互援助条約締結で示したように、大韓民国よりも朝鮮民主主義人民共和国を重視する姿勢を示した。 しかし、1976年の毛沢東主席の死後、中華人民共和国の実権を握った鄧小平が1978年12月にそれまでの経済政策を変更して改革開放路線を歩み、西側諸国からの外資導入への意欲を見せたことと、1990年の東西冷戦体制の崩壊を要因として、大韓民国の対中政策は転換した。 1992年8月24日に盧泰愚大統領は、人口が多く市場として有望で、安価な労働力の提供が可能な中華人民共和国との国交樹立を模索する産業界からの要請もあり、中華人民共和国との国交を正常化し(中韓国交正常化)、「一つの中国論」に基づいて中華民国(台湾)とは断交した。
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