反共右派へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:35 UTC 版)
1917年(民国6年)7月、孫文が広州で護法運動を開始すると、張知本もこれに参加するために広州に向かい、非常国会に参加した。その後、李書城が湖南省で組織した護法軍総司令部において張が秘書長を務めている。1918年(民国7年)5月、護法軍政府の改組(大元帥制から7総裁制への改組)と共に権限を削減された孫文が上海へ去ると、張もこれに随従した。1923年(民国12年)、上海法政大学で教鞭をとっている。 1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会が広州で開催されると、張知本もこれに参加して中央執行委員候補に選出され、2月には大本営参議にも任ぜられている。しかし張自身は孫文が進める三大政策には反対しており、馮自由らの反共活動に与した。その後、国民党漢口執行部に移り、陝西・湖北・湖南の3省の党務を担当した。同年には湖北法科大学校長にもなっている。 1925年(民国14年)3月、孫文が死去すると、張知本は同年11月に北京で結成された反共右派の西山会議派の一員と目されるようになる。しかし実は張自身は、西山会議派の思想傾向こそ支持していたものの、西山会議派指導者の招聘にもかかわらず北京に赴かないなど同派の活動への参加に消極的であった。しかも、国民党主流派からの事情聴取に対しても、張は自身が西山会議派の一員であることを否定している。それでも国民党主流派からは張は西山会議派の主要構成員と見なされ、結局、翌年1月の国民党第2回全国代表大会において西山会議派の林森・居正らと共に除籍処分を受けている。
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