好意的評価
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青島幸男 - 小林信彦とは同年齢で、老舗の食べ物屋の跡取りとして日本橋に生まれ育った点も同じ、大学も同じなど共通点が多い。昭和30年代中盤、小林、前田武彦、永六輔と共にタレント文化人の走りとして珍重され、「才能多角経営人間」の呼称で週刊誌からクローズアップされた。『夢の砦』に登場する川合寅彦のモデルの一人と目される。青島が東京都知事に当選したとき小林は喜んだが、やがて青島都政に失望するに至った。 秋元康 - 小林は一貫して、秋元の仕事および発言を評価しており、対談もしている。 渥美清 - 放送作家として昭和30年代に交流があり、アパートにあがりこんで朝まで映画談義に興じた時期もあった。 甘糟章 - マガジンハウス編集者。女性向け雑誌『クロワッサン』編集長時代に、村井弦斎『食道楽』の現代版をということで、小林に、奇書との評価もある『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』の連載を依頼した。 新井素子 - 独特の文体で知られる小説家。ちくま文庫版『オヨヨ島の冒険』及び、新潮文庫版『ミート・ザ・ビートルズ』の解説を担当。彼女があの独特の文体を作る際、子どもの頃に読んだ小林の文章(特に『オヨヨ島の冒険』)に、影響を受けたという。また小林も、『小説探検』において、「外国は知らず、日本では〈ポストモダン〉と銘打つ小説の大半はイモであり、クズである。(略)はっきりいって、読者はこんな本を相手にしない。翻訳ミステリを読む方がマシにきまっている。あるいは新井素子さんの『おしまいの日』を読む。」と、新井を評価している。 荒木経惟 - 東京三ノ輪出身。小林からは同じ下町出身者として親愛感を持たれており、『私説東京繁盛記』『私設東京放浪記』では、小林の文章に写真を寄せている。漫画家高信太郎は小林の面前で荒木を馬鹿呼ばわりしたため小林の怒りを買い、『天才伝説 横山やすし』では醜悪な酔態を実名で暴かれた。小林は、荒木の亡き妻荒木陽子も含め、夫婦ぐるみで交際していた。 アルフレッド・ヒッチコック - 『ヒッチコックマガジン』時代に『北北西に進路を取れ』の宣伝で来日。小林は、江戸川乱歩、双葉十三郎、淀川長治等との座談会のセッティングをした。 安藤鶴夫 - 名著『落語鑑賞』の著者として小林から尊敬されており、小林の芸能研究に少なからぬ影響を与えた。晶文社版『日本の喜劇人』刊行時に対談を収録した。 石川喬司 - 小林の理解者の一人。1963年、『サンデー毎日』編集部にいたころ、自分の首をかけて「これがタレントだ」の連載企画を通した。また、小林の処女長編『虚栄の市』の原稿をあずかり、あちこちの出版社に声をかけて、出版につなげた。 石堂淑朗 - 放送作家時代の友人の一人。 稲葉明雄 - 小林の最も親しい友人で、仕事についての相談もよくしていた。稲葉もギャグ、パロディが好きな才人で、初対面から気があった。小林の熱愛する小説、フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』の翻訳者でもある。『唐獅子株式会社』執筆に際しては、作中人物の大阪弁を監修した。 井原高忠 - 日本テレビの元プロデューサー。1965年秋に小林をテレビの世界に引き込み、台本を書かせた張本人。4年間、小林とともにバラエティショーを作った。 伊東四朗 - 伊東を「最後の喜劇人」として、高く評価している。 色川武大 - 昔の喜劇や古いアメリカ映画について同好者であり、色川の膨大なビデオ・コレクションからビデオを借りたこともある。 植木等 - クレージーキャッツのボーカリスト、ギタリスト、俳優。小林は無名時代から高く評価し、1980年代には再評価にも力を尽くした。私的な交流も長いが、年長者であり、謹厳な人柄もあって谷啓ほど気安い友人関係ではなかったようだ。 内田春菊 - 小林の作品『極東セレナーデ』で、「若い女の子の会話文」を把握するのに小林は内田のエッセイ集を参考にした。 江戸川乱歩 - 小林を『ヒッチコックマガジン』編集長に抜擢した張本人。のち、小林は短篇「中年探偵団」の中で乱歩の文体をパスティーシュしてみせた。『夢の砦』に登場する城戸草平のモデルの一人。 エドワード・ボンド - 1934年生まれ。イギリスの過激で反体制的な劇作家。労働者階級出身で中学までの教育しかなく、ローマ法王やイギリス王室などを茶化す劇を書いた。1968年の『奥の細道(The Narrow Road to the Deep North)』は松尾芭蕉が主人公で、最後には彼が首相になってしまう物語。この舞台の記事を当時、小林は新聞で読んで「喜劇的想像力」を刺激され、15年後に『ちはやふる奥の細道』を書いた。 大島渚 - 映画界における小林の親友の一人。大島は小林の評論「喜劇映画の衰退」を読んで感動。自分の本を出したばかりの大光社に紹介し、単行本化される際の題名『笑殺の美学』を大島が命名した。また小林の才能を高く買い、1961年秋には、富永一朗の『チンコロ姐ちゃん』が映画化される際には、映画監督の仕事を世話しようとしたことがある。 大瀧詠一 - 「クレイジーキャッツ」「小林旭」の音楽を愛するものとして、1970年代から小林の著書を愛読。のち小林と個人的に親交を結ぶに至る。 大平和登 - 小林の友人の中で屈指の米国通。東宝アメリカ代表をつとめてニューヨーク在住歴が長く、ブロードウェイの最新の演劇情報を小林にもたらした。 大藪春彦 - 大学の後輩。『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。大藪が、伊達邦彦がアメリカに行き、アメリカのハードボイルド探偵たちと対決するパロディ作品『野獣死すべし(渡米編)』を書く際には、小林が助言を行った。小林の処女長編小説『虚栄の市』の登場人物のモデルにもなっている。 佐藤忠男 - 『映画評論』編集長時代に小林に「長い評論」を書くよう勧め、小林は「喜劇映画の衰退」(『世界の喜劇人』の原型)を執筆した。 佐藤信 -劇団黒テント創設者。小林はしばしば、黒テントの公演を見た。晶文社版『日本の喜劇人』で「解説対談」をしている。 荻昌孝 - 教育大附属時代からの、最も古い友人の一人。『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人荻昌弘の弟。本当に親友と呼べるのは稲葉と彼だけだという発言もある。 長部日出雄 - 大学の後輩。『週刊読売』記者時代から小林と交際。都会的な左派から土着的な反共右派へ転向したことから、晩年はやや疎遠となっていた。 各務三郎 - 『ミステリマガジン』四代目編集長。小林の『大統領の密使』を連載させた。また料理物の文章が好きで小林と意気投合し、〈料理人教養小説〉『大統領の晩餐』を生んだ。 香川登志緒 - 『てなもんや三度笠』の脚本家。番組のファンだった小林が大阪を訪れ知り合った。1963年に小林がNHKで「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」を作る際、小林が知識がない「大阪の笑い」について香川に教えを乞い、個人的な交際が始まった。また、大阪弁小説『唐獅子株式会社』を書いたのは、香川の会話があまりに面白かったことによる。また小林の小説『悪魔の下回り』の題名は、『てなもんや三度笠』の楽屋に来ていた、黒づくめの怪しげな「渡辺プロのマネージャー」を評する香川の発言から取った。 片岡義男 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。エルビス・プレスリーとその時代を巡って、対談集を刊行した。 河村要助 - 小林泰彦の紹介で、『紳士同盟』以降、小林の小説の挿絵や、刊行本のカバーアートを多数担当。 上林暁 - 全集を読み耽るなど、その私小説を愛読している。 久保田二郎 黒川光弘 - 中日新聞文化芸能局長。小林がコラムをずっと中日新聞にコラムを連載していたのは、この人がいたため。 古今亭志ん生、古今亭志ん朝 - 小林は夫婦で、親子2代の大ファンであった。 古波蔵保好 - 「ヒッチコックマガジン」時代、永六輔も加えた3名で「若い人の不良化運動促進の会」を作った。 坂本一亀 - 河出書房の名編集者。いくつもの出版社に持ち込んで断られていた小林の処女長編小説『虚栄の市』を評価して、刊行させた。 佐藤嘉尚 - 大光社の編集者時代に、大島渚の紹介で『笑殺の美学』を刊行。のち、『面白半分』を刊行。 澤田隆治 - 「てなもんや三度笠」の演出家。番組のファンだった小林が、大阪を訪れ知り合った。1963年に小林がNHKで「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」を作る際、協力した。のち友人となる。 品田雄吉 -「映画評論」編集部時代に小林の評論を担当。小林に「映画評論を書かないか」と初めて薦めた人。 滝大作 - 演出家。1963年に小林がNHKで「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」を作る際のアシスタントだった。 谷啓 - クレイジーキャッツのトロンボーン奏者、俳優。ほぼ同年輩ということもあり、メンバーの中で最も小林と親しく交際していた。 つかこうへい - つかの『熱海殺人事件』を喜劇として高く評価した。 筒井康隆 - SF界で不遇をかこっていた折、小林の薦めで中間小説誌に進出し、大成功を収めた。のち『海』で純文学を書き始めたのも小林や大江健三郎たちの紹介による。また、同世代の映画マニアであり、ともにマルクス兄弟を愛好している。「笑いの文学」を書いていることについても、互いに同志感があり、筒井は『唐獅子株式会社』の解説で、その元ネタを詳細に書いている。 都筑道夫 - 推理作家、SF作家。小林が『ヒッチコックマガジン』を創刊した時代に『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長を務めていた。当時、小林はライバル視して自身のモチベーションとしたが、3か月後に都筑は早川書房を退職し、小林を落胆させた。その後は、親しく交際した。 ヤクルトスワローズ - 小林はルールも知らないほどの野球音痴で、1960年代には「長嶋を知らない男」との異名をとった。だが、1980年代になぜか、突然プロ野球好きとなり(アメリカの野球関係のノンフィクションに、小林好みのユーモア物が多かったことが影響したか?)、ヤクルトの熱狂的なファンとなった。ついにはW・C・フラナガンに「素晴らしい日本野球」を執筆させた。野茂英雄などのメジャーリーガーたちも応援していた。 トニー谷 - かつては一世風靡した芸人だが忘れられていた。小林が『日本の喜劇人』の中で彼を大きく扱ったことから、再評価され、テレビ出演や、没後にレコードが再発される等した。 とんねるず - 一貫して彼らの「笑い」を評価している。 永井淳 -『マルクス兄弟のおかしな世界』の共訳者で親しい友人。ユニークな性格で、小林に洋式トイレの使い方を滔々と語って聞かせ、「騎乗位」だの「後背位」だのといったコトバを使って、実際にそのポーズまでして見せたという。 野坂昭如 - 小林を最初にテレビ局へ連れて行った張本人。放送作家時代に「ヒッチコックマガジン」の表紙モデルを務めたことがある。小林は、後に1965年の野坂の作家デビュー作「エロ事師たち」を読み、その「独自の文体」にショックを受けている。六本木や四谷に住んでいた頃は互いに住まいが近く、家族ぐるみで親しく交際していた。野坂の『東京十二契』は、野坂版『私説東京繁盛記』の趣きがある。 萩本欽一 - コント55号時代からの小林の友人。短篇「踊る男」の風間典夫のモデルとなった。 爆笑問題 - 近年の「お笑いブーム」中では、唯一彼等を評価している。 蓮實重彦 - 雑誌『海』で、小林の小説『ちはやふる奥の細道』 の書評を執筆。小林がこの小説の「原題」とした「ROAD TO THE DEEP NORTH」はビング・クロスビー&ボブ・ホープの「珍道中シリーズ」の原題のパロディだが、それに呼応して「アラバマ珍道中」(ROAD TO THE DEEP SOUTH)という架空の映画を話題にし、この「なぜか、シリーズ中で唯一日本未公開の」映画の脚本家が「W・C・フラナガンの祖父である」などと、小林のギャグにさらに悪乗りする内容であった。この書評は『小林信彦の仕事』に収録されている。 橋本治 - 『1960年代日記』の単行本版の解説対談、及び文庫本の解説を担当。小林同様に「60年代では、前半のほうが面白かった」という、一般的な評価とは逆の見解を示している。 氷室冴子 - 彼女の小説をいち早く評価。のち、対談もしている。 弘田三枝子 - 歌手。その稀有な歌唱力、リズム感、躍動感は傑出していて、小林も「大天才」「戦後の17年は無駄ではなかった」と、高く評価した。また個人的にも交友関係があり、彼女を登場人物のモデルにした短編も書いている。 藤山寛美 - 「喜劇役者としては、最高の人」と高く評価しており、一時は「松竹新喜劇」の東京公演には通いつめるほど、熱中していた。だが、楽屋を訪れた小林に現金を渡すなどの、寛美の性格には閉口し、個人的には交際しなかった。千葉蝶三郎の死後は、寛美の舞台から足が遠のいた。 双葉十三郎 - 小林が少年時代に最も尊敬していた映画評論家の一人。双葉が『スタア』という映画雑誌を編集していたとき、小林は高校時代にファンレターを出し、「おひまなときには遊びにいらっしゃい」という返事を貰ったことがある。のち『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人となった。 真野律太 - 博文館の『講談雑誌』『譚海』の元編集長。小林が宝石社に入った頃、校正者として同社に勤務していた。短篇『隅の老人』のモデル。なお色川武大も編集者時代に、彼とは面識があった。 峰岸達 - イラストレーター。1980年代後半 - 1990年代にかけて、小林の本のカバー絵やイラストを担当。 みうらじゅん - 小林の著書『定年なし、打つ手なし』において、名指しはしていないが「みうら的な生き方」がこれからの時代にあっていると、評価した。 虫明亜呂無 - 大学の先輩。『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人で、雑誌『映画評論』の寄稿者仲間。小林の結婚式で仲人を務めた。 森卓也 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。専門はアニメーション評論だが、映画、落語にも詳しく、雑誌『映画評論』寄稿者仲間だった頃からの友人。若きおり、小林が森に戦前のアニメーションの話をした所、たちどころにその間違いを指摘され、「同世代で、戦前の映画について自分より詳しい者がいる」と驚愕した。 山川方夫 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。小林の処女長篇『虚栄の市』に跋文を寄せた。小林は「山川スクールの最後の生徒」を名乗っている。 山田智彦 - ともに新人作家時代からの親友で(小林にとっては兄貴分的存在だったという)、小林は山田を「日本初のモダン・ホラー作家」として評価し、山田のホラー小説集『蜘蛛の館』を編集し解説を執筆した。 横田順彌 - 小林が『ぼくたちの好きな戦争』の作中に「日本が勝利する架空小説」を登場させる際、実際に戦前に書かれた「日米架空戦記」についての情報を提供した。 横溝正史 - 日本に本格推理小説を根づかせた大御所。もと「新青年」編集長。江戸川乱歩とは生涯の盟友でもあり、宝石社時代の小林とも接触があった。一時引退後、1970年代後半に空前のブームとなってカムバック。その際に小林は自ら企画して数回のロングインタビューを行ない「横溝正史読本」をまとめた。起こしまで自分で手がけており、作家として地位を築いたのちの彼としては異例の労作である。また『オヨヨ大統領の悪夢』において横溝作品『真珠郎』の冒頭文をもじり、ご本尊を苦笑させた。 吉田秋生 - 漫画家。小林は彼女の絵を気に入り、一時、小林の本のカバー絵をよく描いていた。 吉田照美 - 小林信彦はラジオのヘビーリスナーで吉田照美を評価している。吉田のラジオに出演し、吉田に対し悪態をついた天本英世の発言を「気にすることないですよ」などフォローをした。 吉本隆明 - 「オールナイト・フジ」をいち早く評価するなどの、1980年代の吉本のメディア論を評価していた。小林との対談「大川いまむかし」(『東京人』創刊号に掲載)が、『よろこばしい邂逅 吉本隆明対談集』に収録されている。 渡辺武信 - 詩人、建築家、映画評論家。教育大附属の後輩。『笑殺の美学』の解説を担当。
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好意的評価
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この小説は連載当初から読者の好評を博し、同時代の作家たち、森下雨村からは「小説と記録の中間を縫うて、飽くまでも事実を離れず、しかも探偵小説以上の――或はいかなる探偵小説にも求め難い――興味を覚えさしめる」、江戸川乱歩からは「正確なる専門的智識と、作者としての情操とを傾けて書卸されたこの著作は、日本犯罪史の一つの文献として、長く保存さるべき性質のものである」と評価された。一方で甲賀三郎は、全体的には『小笛事件』を評価するものの、「作者の非難がやゝもすると小南博士に向けられ勝ちなのは、少し考えもの」「厳正中立で冷静なるべき作者が、最初からやゝ片寄った意見を持ってゐる」との批判も寄せている。 後世の評価では、評論家の中島河太郎が「戦前の探偵小説としては、甲賀三郎の『支倉事件』と並ぶ収穫」、編集者の戸川安宣が「戦前随一と言っていいノンフィクション・ノヴェルの傑作」と高評価を与える。歴史家の細川涼一は、「島田荘司『秋好事件』や佐野眞一『東電OL殺人事件』の戦前における優れた先蹤として、記憶されるべき作品」と評価している。また、かつて山本に資料を提供する側であった高山は、後の回顧録では『小笛事件』について「もっとも事実に忠実で良心的に調べられている」と評価し、回顧録の資料として全面的に依拠するまでに至っている。
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