編集者時代
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駒澤大学法学部卒業後、オリコンに入社。『オリコン・ウィーク The Ichiban』(後の『オリ★スタ』)の編集長に29歳の若さで就任。その後、紙面ではサブカルチャー、あるいはマニアックでエロかつ下品な文体・内容に満ちたコーナー等を担当。長らく読者ページも担当し、投稿者とのキャッチボールも人気となる。紙面において裸体を晒したなどで副編集長に降格。その後も昇進・降格を経験し、最終的には副編集長。音楽雑誌らしくない、その毒に満ちた個性的な記事はオリコンの顔でもあった。オリコン在籍時からラジオ番組などに出演し、他社の出版物である『インディーズ・マガジン』(当時リットー・ミュージック発行)にも寄稿。ザ・ブルーハーツのベスト盤『EAST WEST SIDE STORY』やGOING STEADYのシングル『童貞ソー・ヤング』のライナーノーツなども担当した。長らく猪股をかばい、可愛がっていた小池聰行が死去した2001年に独立。しばらくオリコンに寄稿するも、誌面リニューアルにともない疎遠になる。その後は編集・執筆活動と共に、バンド活動をメインとする。 AV鑑賞とオナニーが趣味。結婚を2度経験するが、いずれも妻に浮気されて離婚。その後は独身であった。音楽・お笑い関係の飲み友達が多く、その交友関係は広かった。編集者時代に見出したミュージシャンに峯田和伸、氣志團、ガガガSP、サンボマスターなどがいる。またブレイク前から江頭2:50を評価し、連載コラムを任せるなど後述の闘病以降も関係性が続いた。
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編集者時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/13 13:20 UTC 版)
出版社のサラリーマン生活は月給8千円、しかも6ヶ月は見習期間で支給されるのはその8割だった。「会社から帰ると汗っかきの私は上がり框に腰掛けバケツで足を洗い、その足を拭きながら妻が涙を落とすこと度々で、見ないようにした」と後年語っている。1953年(昭和28年)秋には同社編集部長宅に居候。翌年12月校閲部異動、1955年(昭和30年)秋編集部に。32歳で谷崎潤一郎の担当になり、1959年(昭和34年)同全集(30巻)を刊行、翌年にはエリオット全集(全5巻)、子母澤寛「蝦夷物語」「逃げ水」などの出版に携わった。氏のジャンル歴史小説への“のめり込み”は30歳代前半に子母澤の「新選組始末記」との出会いにあったといわれ、長谷川伸や海音寺潮五郎の史伝的作品にも関心を寄せた。1970年(昭和45年)築地本願寺で行われた三島由紀夫の葬儀の手伝いが編集者としての最後の仕事で、1971年(昭和46年)3月中央公論社を退社する。
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