1980年代後半 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:03 UTC 版)
「ルー・グラム」の記事における「1980年代後半 - 1990年代」の解説
1987年まで、フォリナーの内部衝突が続いた。この状態にピリオドを打ったのが、ルーの最初のソロアルバム『レディ・オア・ ノット』のリリースであり、批評家から高評価を受け、「ミッドナイト・ブルー」は5位のヒットシングルとなった。彼は、1987年のホラー映画『ロストボーイ』のためのサウンドトラック「ロスト・イン・ザ・シャドウズ」も寄付した。この後、1987年後半にフォリナーのアルバム『インサイド・インフォメーション』をリリースし、ビルボードのアルバムチャートでは15位となった。収録曲の「セイ・ユー・ウィル」は、この年の終わりにリリースされ、1988年の最初に6位に達し、続く「ウィズアウト・ユー」も5位、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは春に1位となった。3番目のシングル「ハート・ターンズ・トゥ・ストーン」は、夏に56位に達した。セカンドソロアルバム『ロング・ハード・ルック』には、10位入りした「ユー・アンド・ミー」や40位に達した「トゥルー・ブルー・ラヴ」が収録されている。 ソロの成功によって自信をつけ、ミック率いるフォリナーの方向性とますます溝が深まったことにより、ルーは、『ロング・ハード・ルック』のツアーのため、1990年5月にグループを離脱し、スティーヴ・ミラー・バンドのオープニングを務めたり、友人や元ブラック・シープのベーシスト、ブルース・ターゴンと共に1990年代後半にシャドウ・キングを結成したりした。この新しいグループの同名アルバムは、1991年にアトランティック・レコードからリリースされた。ポジティブなレビューにも関わらず、グループはまとまりに欠けていた。また、新しいプロジェクトを維持するのに必要なマーケティングやプロモーションがなかった。そのため、シャドウ・キングはしばらくして解散することになった。同年、フォリナーはアルバム『アンユージュアル・ヒート』をリリースし、ヴォーカリストにジョニー・エドワーズを立てたが、前作と比較して失敗に終わった。 エドワーズは、フォリナーファンに広くは認められず、ミック・ジョーンズのコンタクトによって、ルーが1992年4月にグループへ復帰することに同意し、コンピレーション『アンド・ビヨンド (ベスト・オブ)』のために3曲の新曲が録音された。ルーは、ブルース・ターゴンもフォリナーのラインナップに加えている。 1992年、前年度の終わりにリハビリによる制限を完了した際に、ルーはボーン・アゲイン・クリスチャンと呼ばれる新生キリスト教徒となった。「ロックンロールの生活に疲れ、とても充実していると感じなくなった。僕は、悪い様々な習慣の餌食になっていた。自分自身の自制心と精神力が十分でなかったと明らかになったので、カトリック教徒になってやり直したい。僕は長年、答えはもっと深い何かということを知っていた」。 1994年、フォリナーはアルバム『Mr.ムーンライト』をアリスタ・レコードからリリースし、1995年にはアメリカ盤もリズム・サファリ・レーベルからリリースされた。これは、ヨーロッパでは成功を収めたが、世界的な売り上げやアメリカでの人気は得られなかった。「アンティル・ジ・エンド・オブ・タイム」は、アダルト・コンテンポラリー・ラジオへ入った。 1996年、ミックはルーに、オーストラリアの歌手、ティナ・アリーナがカバーする『アイ・ウォナ・ノウ』のコーラスに加わるように求めた。この曲は、ヨーロッパ全体で、再び大きなヒットとなった。 1997年4月、クリスチャン・ロックバンド、ペトラの『神聖紀』にヴォーカルを提供した2ヶ月後、バンドが日本ツアーを終える予定だった前夜、ルーは頭蓋咽頭腫と呼ばれる脳腫瘍の一種と診断された。腫瘍は良性だったが、この手術によって、彼は脳下垂体を痛めた。さらに、リハビリは彼に負担を与え、体力や声に影響することとなった。彼は病気の間も、1998年までミックと仕事を続けており、サマーフェスティバルや小さな会場でフォリナーのツアーに復帰した。
※この「1980年代後半 - 1990年代」の解説は、「ルー・グラム」の解説の一部です。
「1980年代後半 - 1990年代」を含む「ルー・グラム」の記事については、「ルー・グラム」の概要を参照ください。
- 1980年代後半 - 1990年代のページへのリンク