1980年代前期
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「ジャパニーズ・メタル」の記事における「1980年代前期」の解説
80年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える。Sighの川嶋未来は、「80年代当時、ヘヴィメタルは確実にメインストリームに属する音楽であった。クラスメイトにもヘヴィメタル好きは複数いた」と当時を振り返っている。 1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。しかし、そのLAZYは音楽的方向性を巡り所属事務所やメンバー間の意見の相違が表面化し1981年5月31日に解散となる。これを機に、高崎と樋口宗孝が本格的なヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」を結成し、1981年11月にアルバム「誕生前夜」でデビュー、12月17日には浅草国際劇場でデビューコンサートを開く。 LAZY同様、営業面の問題から歌謡曲路線を取らされていたBOW WOWが本来のヘヴィメタルバンドに戻ることを宣言し、1982年 - 1983年には海外のロック・フェスティバル(レディング・フェスティバル)に日本人アーティストとして初めて参加した。この他では、のちに俳優として活躍するうじきつよし率いる子供ばんども活発なライブ活動をし、各地のイベントの常連となっていた。 「ヘヴィメタル」の項目でも触れているが、この頃から音楽雑誌の「YOUNG GUITAR」と「ロッキンf」が日本のヘヴィメタルバンドの為にフェスティバル等を開いたりと積極的にヘヴィメタルシーンを盛り上げていた。 1983年から翌1984年にかけて、関西ではEARTHSHAKER、44MAGNUM、MARINO、RAJAS、X-RAY、MAKE-UP、東京からもBLIZARD、AROUGEなどのヘヴィメタルバンドが次々とデビューを果たす。また、この頃はビーイングがアイドル的な女性メタルシンガーを次々と売り出しており、樋口宗孝のプロデュースで浜田麻里が、高崎晃のプロデュースで本城未沙子がデビュー。それに続いて早川めぐみ、橋本ミユキ(アニメソング歌手の橋本みゆきとは同姓同名の別人)等のイニシャルが「H.M.」(つまりHeavy Metal)の女性シンガーが次々とデビューを飾るが、長期にわたって継続的に活動したのは浜田だけであった。
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1980年代前期(携帯型)
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「日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1980年代前期(携帯型)」の解説
1980年代初頭の日本では、任天堂のゲーム&ウオッチやバンダイのLCDゲームシリーズ、エポック社のデジコムシリーズ、カシオ計算機のゲーム電卓などのヒットにより、日本国内の携帯ゲーム市場は電子ゲームが全盛期を迎えていた。しかしこれらの多くはソフトウエアとハードウエアが一体化した、ゲーム内容を換装できない単発の製品だった。すなわちユーザーは毎回ハードごとソフトを買い換えねばならず、後年のようなハードウエアのシェア争いを意識する必要はほとんどなかった。強いて挙げるなら、同じメーカーの同じシリーズに揃えればACアダプタを共用できるケースがたまにあった程度である。 そのような状況下には違いないが、参考として「カートリッジ交換式の電子ゲーム」も、この時点で全く見られなかったわけではない。ツクダオリジナルのアメリカ横断ウルトラクイズや、バンダイのクイズ面白ゼミナールは紙の問題冊子が用意されたクイズゲームで、単に問題冊子別に選択肢の正答データを切り替えるための手段としてカートリッジ交換が用いられた。前者では実際に交換データのユニットが新たな問題冊子と共に発売された。後者はクイズの分野別に3本のカートリッジが本体に付属していた。いずれの機種も数ある電子ゲームの一種でしかなく、大きな注目を集めることなく終わっている。
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1980年代前期
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1979年からプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。 1981年3月に『A LONG VACATION』を発表。当初は売上が低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。森進一の『冬のリヴィエラ』では歌謡曲の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。小林旭の「熱き心に」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃のアイドル的人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。 独自のポップス音楽の歴史を研究するに至り、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝は、1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に音楽制作活動の休止を決断。1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブがその最後となり、同年11月シングルカットした「フィヨルドの少女」を最後に新譜発表は途絶えた。
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