1980年代後半 - 1992年:天龍同盟、超世代軍との闘いとは? わかりやすく解説

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1980年代後半 - 1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:21 UTC 版)

ジャンボ鶴田」の記事における「1980年代後半 - 1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い」の解説

鶴田怪物レスラー完全無欠エースとして評価高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍プロレス四天王との戦いであった。またそのきっかけとなったインパクトのある試合として、仲野信市選手対すバックドロップ決めた試合あげられる天龍繰り出す激し攻撃触発され鶴田恵まれた身体能力背景覚醒一般的なプロレス技で仲野や天龍失神させる、寺西勇アニマル浜口全治数ヶ月入院余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍世界タッグ戦でバックドロップの3連発後述)、1989年4月三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下パワーボムと、2度失神させられている。 1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビインターナショナル・タッグ王座PWF世界タッグ王座統一初代世界タッグ王者就いた同年8月30日前日龍原砲王座奪われ五輪コンビ挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップ連続食らいすでに意識がなく自力立ち上がれない天龍髪の毛掴んでしまい、無理矢理引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神追い込み、その天龍をかばう原ごとピンフォールをして王座奪回した1989年4月には、シングルタイトルであるインターPWFUN三冠統一し初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力認められ結果ジャンボ鶴田人気不動のものとなり、1990年2月10日行われた新日本東京ドーム大会参戦した際には敵地であるにもかかわらず入場時に「ツ・ル・タオー!コール爆発するなど、全日エースから日本プロレス界のエース呼ばれるにふさわしい存在になっていた。この時期全日本リングから、かつて鶴田世界王座戦線で何度も苦杯飲まされリングアウトでの決着反則での決着徐々に消え去りリング内での完全決着目指されるようになった事も、鶴田には追い風となった天龍新天地求めて全日本離脱しSWS移籍した後、鶴田ライバルとして名乗りをあげたのは弟子三沢光晴であった1990年6月三沢シングルマッチ鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み合戦制してのもので、真に鶴田越え果たしたとは言い難いものであった。だが、三沢最初で最後の涙をリング上で流し日本武道館観客総立ちになるなど、盛り上がる結果となったその3ヶ月後の1990年9月三冠ヘビー級王座への挑戦をかけて再度三沢と戦うが、今度鶴田ジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールド三沢から完璧な3カウント奪っている。 1991年1月19日ハンセン破り三冠ヘビー級王者第8代目に返り咲くこの年三沢川田利明スティーブ・ウィリアムス鶴田三冠王座挑戦する全て退けている。1月下旬後楽園ホール大会では、川田から顔面へのステップキック執拗に繰り出され直後に、鶴田は完全に目の色変わってしまっており、まずはエルボーから始まり、顎へまともに入るジャンボ・キック場外マットをひっペリ返した床上叩き付けるボディースラムイス攻撃などを川田繰り出したタッグパートナー渕正信止めに入るもののその渕をも突き飛ばしてしまい、解説席に座っていた竹内宏介もその迫力言葉が出なくなってしまうほどの壮絶な攻撃であった和田京平によると、試合後の控え室では「なんで僕はあんなにキレてしまったんだろうねぇ…」と、普段ジャンボ鶴田戻っていたという。この時の鶴田について、和田京平は「ああいうのはお客さん見せるものではない。普段余裕ジャンボ見せてほしかった」と自書語っている[要出典]。 また10月大阪府立体育会館での6人タッグ戦では、鶴田エルボー三沢光晴の鼻を直撃し三沢鼻骨骨折してしまう。鼻を負傷しながらなおも試合続け三沢に、鶴田はその鼻に狙い絞った攻撃徹底する鶴田反旗後の三沢に対して「あいつはもっと良い奴だと思っていたんだけどね」という意味不明コメント残しているが、この試合後に「三沢まだまだ良い奴じゃないんだよ」と語っており、自分超世代軍の壁であることを自認していたとも言えるこの年鶴田全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後インタビューで「一回いいから世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けていいから思いっきり闘いたい」とコメントしたことがある当時ホーガン所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日選手スタンド・プレー厳しかった対戦したい相手として他には前田日明藤波の名も挙げており、一時新日本への移籍を本気で考えた時期もあったという。鶴田の元ライバルでもあるタイガー戸口によると、1981年戸口全日本から新日本移籍する際に、鶴田一緒に全日離れようとしていた事が後年明らかにされており、もし実現していればプロレスとの関わり断ったではないか推測している。1980年代後半にも鶴田から「僕はプロレス辞めたら、焼肉屋でも始めようかと思ってるんだよね」と話していた事があり、実際に経営に関する本も読んでいたという。 ファンマスコミ中心に実現期待されていたジャイアント馬場アントニオ猪木対戦について、鶴田は「全日本閉鎖的な面もあるとは思いますが」と前置きをして語り馬場挑戦状叩きつけた猪木については「猪木さんは今は良いですけど、あと何年かすれば年齢的にベストファイト出来なくなるのは確実ですから。猪木さん本人も、そういう状態で挑まれても納得出来ないですよね?」と、第三者として中立的な立場話していた[要出典]。猪木40歳過ぎた頃に前田日明が、そして1986年第2回プロレス夢のオールスター戦企画上がった際に鶴田それぞれシングル対決希望表明したが、結局猪木前田鶴田2人対戦要求応じことはなかった。 1991年には7年ぶりにプロレス大賞MVP受賞し自身としては3度目となった最後タイトルマッチとなったのは1992年10月7日世界タッグ選手権で、田上組みテリー・ゴディスティーブ・ウィリアムス組の挑戦受けたこの年古傷左足首の故障で1シリーズ全休したことに加え1月にはハンセン敗れて3冠ベルト奪われチャンピオン・カーニバルでは優勝戦進出逃すなど、前年怪物振り比べる陰り見えていたが、この年急成長見せていたパートナー田上体調万全ではない鶴田上手くカバーする大活躍を見せている。その田上この年開発した喉輪落としでゴディからフォール奪い王座防衛成功田上躍進見届けた鶴田は、結果的に第一線を退く形となった

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