1980年代後半 - 1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い
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「ジャンボ鶴田」の記事における「1980年代後半 - 1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い」の解説
鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍・プロレス四天王との戦いであった。またそのきっかけとなったインパクトのある試合として、仲野信市選手に対するバックドロップを決めた試合があげられる。 天龍が繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田も恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で仲野や天龍を失神させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発(後述)、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。 1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に龍原砲に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んでしまい、無理矢理引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込み、その天龍をかばう原ごとピンフォールをして王座を奪回した。 1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日に行われた、新日本の東京ドーム大会に参戦した際には敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツ・ル・タ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。この時期、全日本のリングから、かつて鶴田が世界王座戦線で何度も苦杯を飲まされたリングアウトでの決着・反則での決着が徐々に消え去り、リング内での完全決着が目指されるようになった事も、鶴田には追い風となった。 天龍が新天地を求めて全日本を離脱しSWSに移籍した後、鶴田のライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものであった。だが、三沢は最初で最後の涙をリング上で流し、日本武道館の観客が総立ちになるなど、盛り上がる結果となった。その3ヶ月後の1990年9月、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢と戦うが、今度は鶴田がジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。 1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者の第8代目に返り咲く。この年は三沢、川田利明、スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが全て退けている。1月下旬の後楽園ホール大会では、川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後に、鶴田は完全に目の色が変わってしまっており、まずはエルボーから始まり、顎へまともに入るジャンボ・キック、場外でマットをひっペリ返した床上へ叩き付けるボディースラム、イス攻撃などを川田に繰り出した。タッグパートナーの渕正信が止めに入るもののその渕をも突き飛ばしてしまい、解説席に座っていた竹内宏介もその迫力に言葉が出なくなってしまうほどの壮絶な攻撃であった。和田京平によると、試合後の控え室では「なんで僕はあんなにキレてしまったんだろうねぇ…」と、普段のジャンボ鶴田に戻っていたという。この時の鶴田について、和田京平は「ああいうのはお客さんに見せるものではない。普段の余裕のジャンボを見せてほしかった」と自書で語っている[要出典]。 また10月の大阪府立体育会館での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。鼻を負傷しながらなおも試合を続ける三沢に、鶴田はその鼻に狙いを絞った攻撃を徹底する。鶴田は反旗後の三沢に対して「あいつはもっと良い奴だと思っていたんだけどね」という意味不明なコメントを残しているが、この試合後に「三沢はまだまだ良い奴じゃないんだよ」と語っており、自分が超世代軍の壁であることを自認していたとも言える。 この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」とコメントしたことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。対戦したい相手として他には前田日明・藤波の名も挙げており、一時は新日本への移籍を本気で考えた時期もあったという。鶴田の元ライバルでもあるタイガー戸口によると、1981年に戸口が全日本から新日本に移籍する際に、鶴田も一緒に全日を離れようとしていた事が後年明らかにされており、もし実現していればプロレスとの関わりを断ったのではないかと推測している。1980年代後半にも鶴田から「僕はプロレスを辞めたら、焼肉屋でも始めようかと思ってるんだよね」と話していた事があり、実際に経営に関する本も読んでいたという。 ファンやマスコミを中心に実現が期待されていたジャイアント馬場とアントニオ猪木の対戦について、鶴田は「全日本に閉鎖的な面もあるとは思いますが」と前置きをして語り、馬場に挑戦状を叩きつけた猪木については「猪木さんは今は良いですけど、あと何年かすれば年齢的にベストなファイトが出来なくなるのは確実ですから。猪木さん本人も、そういう状態で挑まれても納得出来ないですよね?」と、第三者として中立的な立場で話していた[要出典]。猪木が40歳を過ぎた頃に前田日明が、そして1986年に第2回プロレス夢のオールスター戦の企画が上がった際に鶴田がそれぞれシングル対決希望を表明したが、結局猪木は前田・鶴田2人の対戦要求に応じることはなかった。 1991年には7年ぶりにプロレス大賞のMVPを受賞し、自身としては3度目となった。 最後のタイトルマッチとなったのは1992年10月7日の世界タッグ選手権で、田上と組みテリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス組の挑戦を受けた。この年は古傷の左足首の故障で1シリーズを全休したことに加え、1月にはハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われ、チャンピオン・カーニバルでは優勝戦進出を逃すなど、前年の怪物振りと比べると陰りも見えていたが、この年に急成長を見せていたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田を上手くカバーする大活躍を見せている。その田上はこの年に開発した喉輪落としでゴディからフォールを奪い、王座の防衛に成功。田上の躍進を見届けた鶴田は、結果的に第一線を退く形となった。
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