38度線以南とは? わかりやすく解説

38度線以南(南朝鮮)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 10:27 UTC 版)

連合軍軍政期 (朝鮮史)」の記事における「38度線以南(南朝鮮)」の解説

1945年8月25日アメリカ軍仁川府から南朝鮮の上陸を開始し9月7日アメリカ合衆国極東軍司令部南朝鮮軍政布くこと宣言する同日夜間通行禁止令が出され1982年解除されるまで続くことになる。 ウィキソースに:en:USAMGIK Ordinance 21原文ありますアメリカ軍は、1945年9月9日京城府朝鮮総督府から降伏を受けると総督府統治機構接収し9月11日在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁USAMGIK)を新設して南朝鮮直接統治を担うようになった。しかし、アメリカ軍政庁は現地事情疎く朝鮮効果的に統治する経験能力も有さなかったことから、朝鮮総督府従事していた日本人親日派朝鮮人人士一部そのまま登用し実質的に朝鮮総督府統治機構継承した1945年12月6日アメリカ軍政庁南朝鮮ある日政府財産及び日本人私有財産没収着手 するとともに朝鮮在住日本人引き揚げ推進した1945年12月ソ連モスクワ開催されモスクワ三国外相会議にて、朝鮮米・英・ソ・中4か国の信託統治下に最長5年間置くことが決定された。だが、東亜日報が『ソ連信託統治主張 アメリカ即時独立主張』と誤報したことで、信託統治反対(反託)する大韓民国臨時政府系の右派民族主義派)と信託統治賛成(賛託)する呂運亨左派社会主義派)との対立激化した1946年1月7日李承晩信託統治反対声明書発表、その直後から京城にて開催され第一次米ソ共同委員会は反託派の扱い巡って米ソ対立したため同年5月8日無期限休会となった事態打開しようと中道左派中道右派による左右合作運動が行われたが、左右両派から暗殺などのテロによる妨害受けて運動瓦解した米ソ対立を受けアメリカ軍政は共産主義勢力への取り締まり強め46年5月8日南朝鮮警察朝鮮共産党本部ビル捜索させ、党員による朝鮮銀行100圓券の大量偽造発覚した5月15日発表したアメリカ軍政はこれを機に共産党非合法化転じ9月には朴憲永などの指導者に逮捕状出たため、朴憲永北朝鮮臨時人民委員会樹立されていた北朝鮮越北し、平壌から南朝鮮労働党南労党)を指導して右派との抗争を行わせた。1946年10月1日大邱府南労党扇動受けた南朝鮮人230万人アメリカ軍政に抗議して蜂起し多数犠牲者出た大邱10月事件)。この頃から、南朝鮮では南朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や南朝鮮警察による共産勢力取り締まり苛烈になり、極右団体西北青年会による白色テロ公然と行われた信託統治問題めぐって1947年5月から第二次米ソ共同委員会開かれたが、10月20日に再び無期限休会となった。そのため、米国米ソ共同委員会での問題解決一方的に断念し朝鮮独立問題国際連合移管した。米国は「国連監視下で南北朝鮮総選挙実施するとともに国会による政府樹立監視する国連臨時朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮派遣する」という提案国連総会上程し、11月14日賛成43票、反対9票、棄権6票で可決された。これを受けてUNTCOKは翌1948年1月朝鮮入りし、南朝鮮李承晩金九など有力政治指導者との会談総選挙実施可能性調査などを行なった。UNTCOKは1948年2月20日国連総会へ「国連臨時朝鮮委員団が『任務遂行可能な地域』(南朝鮮)での単独選挙実施案」を提出し2月26日国連総会賛成31票・反対2票、棄権11票の賛成多数可決された。 国連議決により、5月10日にUNTCOKの監視下で南朝鮮単独総選挙実施されることが決定したが、それは新政府統治南朝鮮のみに限定され朝鮮南北分断固定化されることを意味していた。そのため、朝鮮即時独立主張する反託派も、南朝鮮単独政府樹立認め李承晩韓国民主党)派と南北統一政府樹立にこだわる金九大韓民国臨時政府)派に分かれこのような政治的対立から南朝鮮騒乱態となりストライキ主要人物暗殺相次いだアメリカ軍政・韓国民主党単独政府樹立強行動きに対して1948年3月12日には独立運動家金九金奎植金昌淑、趙素昻らが南朝鮮単独総選挙反対声明発表し同じく南部単独選挙反対する北朝鮮人民委員会協調する動き見せたまた、同年4月3日には単独政府樹立認めない済州島民や左派勢力などによる済州島四・三事件起きるが、アメリカ軍政は南朝鮮国防警備隊警察西北青年会などの右翼朝鮮半島から送り込んで反乱住民鎮圧図ったその際鎮圧部隊による島民虐殺多発したため、少なくない島民が難を逃れよう日本密航して在日韓国人となった1948年5月10日、UNTCOKの監視下で、600人を超えるテロ犠牲者出しながらも、南朝鮮では制憲国会構成するための総選挙実行された。制憲国会李承晩議長選出し7月17日制憲憲法制定した他、大統領選挙李承晩初代大統領選出し独立国家として準備性急に進めた。それら準備経て1948年8月15日李承晩大統領大韓民国政府大韓民国第一共和国)の樹立宣言実効支配地域を38度線以南の朝鮮半島のみとした大韓民国独立とともに公式的にはアメリカ軍政が廃止された。ただし、アメリカ合衆国政府による韓国独立承認は遅れ、大韓民国政府承認批准案がアメリカ合衆国議会可決されたのは1949年1月のことであった1948年9月22日には独立国家大韓民国として反民族行為処罰法公布し反民族行為特別調査委員会設置して親日派粛清始めとする過去との決別図った。しかし、親日派清算事業1950年追及不十分なまま活動停止したため、その後韓国社会少なくない影響残している。 朝鮮進駐するアメリカ軍道案内のために日本軍将校同乗している。(1945年9月信託統治反対デモを行う南朝鮮人1945年12月南朝鮮日本人引き揚げ者収容キャンプ1946年・月不明朝鮮南北分断回避しようとして北朝鮮首班金日成面会する金九1948年4月済州島四・三事件最中南朝鮮当局による処刑が行われる前の済州島民(1948年5月大韓民国政府樹立式典様子1948年8月

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