38度線以南(南朝鮮)
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「連合軍軍政期 (朝鮮史)」の記事における「38度線以南(南朝鮮)」の解説
1945年8月25日、アメリカ軍が仁川府から南朝鮮への上陸を開始し、9月7日にアメリカ合衆国極東軍司令部が南朝鮮に軍政を布くこと宣言する。同日、夜間通行禁止令が出され、1982年に解除されるまで続くことになる。 ウィキソースに:en:USAMGIK Ordinance 21の原文があります。 アメリカ軍は、1945年9月9日に京城府で朝鮮総督府から降伏を受けると総督府の統治機構を接収し、9月11日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(USAMGIK)を新設して南朝鮮の直接統治を担うようになった。しかし、アメリカの軍政庁は現地の事情に疎く、朝鮮を効果的に統治する経験も能力も有さなかったことから、朝鮮総督府に従事していた日本人や親日派の朝鮮人人士の一部をそのまま登用し、実質的には朝鮮総督府の統治機構を継承した。1945年12月6日、アメリカ軍政庁は南朝鮮にある日本政府財産及び日本人の私有財産の没収に着手 するとともに、朝鮮在住の日本人の引き揚げを推進した。 1945年12月、ソ連のモスクワで開催されたモスクワ三国外相会議にて、朝鮮を米・英・ソ・中4か国の信託統治下に最長5年間置くことが決定された。だが、東亜日報が『ソ連、信託統治を主張 アメリカは即時独立を主張』と誤報したことで、信託統治に反対(反託)する大韓民国臨時政府系の右派(民族主義派)と信託統治に賛成(賛託)する呂運亨ら左派(社会主義派)との対立が激化した。1946年1月7日、李承晩が信託統治の反対声明書を発表、その直後から京城にて開催された第一次米ソ共同委員会は反託派の扱いを巡って米ソが対立したため同年5月8日に無期限休会となった。事態を打開しようと中道左派・中道右派による左右合作運動が行われたが、左右両派から暗殺などのテロによる妨害を受けて運動は瓦解した。 米ソ対立を受けアメリカ軍政は共産主義勢力への取り締まりを強め、46年5月8日に南朝鮮警察が朝鮮共産党本部ビルを捜索させ、党員による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚したと5月15日に発表した。アメリカ軍政はこれを機に共産党の非合法化に転じ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕状が出たため、朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北朝鮮に越北し、平壌から南朝鮮労働党(南労党)を指導して右派との抗争を行わせた。1946年10月1日、大邱府で南労党の扇動を受けた南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起し多数の犠牲者が出た(大邱10月事件)。この頃から、南朝鮮では南朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や南朝鮮警察による共産勢力取り締まりが苛烈になり、極右団体の西北青年会による白色テロも公然と行われた。 信託統治問題をめぐって1947年5月から第二次米ソ共同委員会が開かれたが、10月20日に再び無期限休会となった。そのため、米国は米ソ共同委員会での問題解決を一方的に断念し、朝鮮独立問題を国際連合に移管した。米国は「国連の監視下で南北朝鮮総選挙を実施するとともに、国会による政府樹立を監視する国連臨時朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮に派遣する」という提案を国連総会に上程し、11月14日に賛成43票、反対9票、棄権6票で可決された。これを受けてUNTCOKは翌1948年1月に朝鮮入りし、南朝鮮で李承晩や金九など有力政治指導者との会談 や総選挙実施の可能性調査などを行なった。UNTCOKは1948年2月20日に国連小総会へ「国連臨時朝鮮委員団が『任務遂行可能な地域』(南朝鮮)での単独選挙実施案」を提出し、2月26日の国連小総会で賛成31票・反対2票、棄権11票の賛成多数で可決された。 国連の議決により、5月10日にUNTCOKの監視下で南朝鮮単独で総選挙が実施されることが決定したが、それは新政府の統治が南朝鮮のみに限定され、朝鮮の南北分断が固定化されることを意味していた。そのため、朝鮮の即時独立を主張する反託派も、南朝鮮単独政府の樹立を認める李承晩(韓国民主党)派と南北統一政府樹立にこだわる金九(大韓民国臨時政府)派に分かれ、このような政治的対立から南朝鮮は騒乱状態となりストライキや主要人物の暗殺が相次いだ。 アメリカ軍政・韓国民主党の単独政府樹立強行の動きに対して、1948年3月12日には独立運動家の金九、金奎植、金昌淑、趙素昻らが南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表し、同じく南部単独選挙に反対する北朝鮮人民委員会と協調する動きを見せた。また、同年4月3日には単独政府の樹立を認めない済州島民や左派勢力などによる済州島四・三事件が起きるが、アメリカ軍政は南朝鮮国防警備隊・警察・西北青年会などの右翼を朝鮮半島から送り込んで反乱住民の鎮圧を図った。その際、鎮圧部隊による島民虐殺が多発したため、少なくない島民が難を逃れようと日本へ密航して在日韓国人となった。 1948年5月10日、UNTCOKの監視下で、600人を超えるテロ犠牲者を出しながらも、南朝鮮では制憲国会を構成するための総選挙が実行された。制憲国会は李承晩を議長に選出し、7月17日に制憲憲法を制定した他、大統領選挙で李承晩を初代大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。それら準備を経て、1948年8月15日に李承晩大統領が大韓民国政府(大韓民国第一共和国)の樹立を宣言、実効支配地域を38度線以南の朝鮮半島のみとした大韓民国の独立とともに公式的にはアメリカ軍政が廃止された。ただし、アメリカ合衆国政府による韓国の独立承認は遅れ、大韓民国政府承認の批准案がアメリカ合衆国議会で可決されたのは1949年1月のことであった。 1948年9月22日には独立国家・大韓民国として反民族行為処罰法を公布し、反民族行為特別調査委員会を設置して親日派の粛清を始めとする過去との決別を図った。しかし、親日派清算事業は1950年に追及が不十分なまま活動を停止したため、その後の韓国社会に少なくない影響を残している。 朝鮮に進駐するアメリカ軍。道案内のために日本軍将校が同乗している。(1945年9月) 信託統治反対デモを行う南朝鮮人(1945年12月) 南朝鮮の日本人引き揚げ者収容キャンプ(1946年・月不明) 朝鮮の南北分断を回避しようとして北朝鮮首班の金日成と面会する金九(1948年4月) 済州島四・三事件の最中で南朝鮮当局による処刑が行われる前の済州島民(1948年5月) 大韓民国政府樹立式典の様子(1948年8月)
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