38度線の成立と朝鮮半島分断とは? わかりやすく解説

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38度線の成立と朝鮮半島分断

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:13 UTC 版)

38度線」の記事における「38度線の成立と朝鮮半島分断」の解説

1945年8月9日8月10日から11日にかけて国務・陸軍・海軍調整委員会において「北緯38度線暫定分割する」という案が画定され、ハリー・S・トルーマン大統領の承認受けた。この案はソ連側提示され8月16日ソ連はこれに同意する8月17日には一般命令第一号によって38度線以北日本軍ソ連軍赤軍)に、以南アメリカ軍降伏することが決定された。この命令ポツダム宣言受諾した大日本帝国伝達され9月2日降伏文書調印後に大本営によってこの方針が指令された。 38度線境界となった理由には諸説がある。一つアメリカ軍軍事的な便宜の面から、暫定的な境界線として提示したというものである8月10日から11日会議最中ペンタゴンにおいて陸軍次官補ジョン・マクロイは、アメリカ軍明白な進駐限界線の画定ディーン・ラスクチャールズ・H・ボーンスティール3世大佐命じた二人手元にあった小さな壁掛け地図参考にして限界線を北緯38度決めた二人朝鮮半島首都アメリカ軍占領区域設定することが望ましいと考えており、38度線朝鮮半島をちょうど二分する上に、ソウルが南半分含まれるという理想的なものであった二人がこの作業にかけたのは、わずか30であった。 ほかには日本軍関東軍大本営管轄38度線付近分けており、管轄毎にソ連アメリカ降伏したため、両国占領区域38度線となったという説もある。ただし、8月9日大陸命1389号で済州島を含む南朝鮮駐屯第17方面軍指揮権8月10日午前6時より関東軍移管されており、事実ではないと見られている。 古い研究では38度線米ソ事前に合意していた線であるという主張もあるが、ポツダム会談などの連合国会談そのような合意成されことはない。 朝鮮軍として最後まで日本軍部隊として抵抗した朝鮮民族出身日本陸軍軍人らは当初から韓国軍南朝鮮軍設立参加しており、戦後自由主義政権での建国一致していたとされ、その後日韓交渉において朝鮮戦争英雄であり、陸軍士官学校専門教育受けた日本軍高級将校だった朴正煕パク・チョンヒ日本名高木正雄日本軍満州国駐屯軍出身大統領が、自身軍事独裁政権時代戦前反共主義教育影響語り第二次大戦中国際法違反する非正規出身で、ソ連軍傀儡である事はソウル市民から見ても明らかであった共産ゲリラ首領金日成ソ連から来たこと以外は戦前誰も知らぬ存在であり、さらに「キム・イルソン」という名は伝説上の古代朝鮮史に登場する人名であり、本名あるかす不明であった)ら共産主義者および独裁是とする共産主義政党への嫌悪感や、法治国家として教育受けた日本軍将校出身者が多い韓国軍創始者内での強い敵意が、1945年ポツダム宣言受諾直後から朝鮮半島全域渡って存在していたことを証言している。そして南北統一での体制選択選挙一方的に拒否したのはソ連軍権威によって平壌一部占領しつつあった朝鮮労働党関係者のみであったという。満州国朝鮮半島南部往復する業務に就いていた朴正煕は、戦前戦中平壌市でも、京城(現・ソウル)に代表される南部同様に国民学校での公教育と共に英米同様の反共意識日本内地同様に北部朝鮮においても法治国家としての意識が既に存在し戦中は特に非合法かつ極左テロリスト扱いであった共産党への忌避感が朝鮮半島全域社会全体常識であったことも、併せて言及している。 1945年8月15日朝鮮半島台湾島などを含む多民族国家であった大日本帝国政府連合国軍によるポツダム宣言米ソ両軍による日本領朝鮮半島北緯38度線を境にした分割占領及び軍政化後の選挙実施強制する条項を含む)を受諾したそれまで朝鮮民族は、1910年日韓併合以来、約30年以上に渡たって毎年数十倍を誇る志願率で朝鮮人設けていた日本軍将校志願し南方への日本軍進軍と共に朝鮮日本国籍者として第二次大戦戦い続けてきていた(朝鮮民族による東南アジアでの日本軍人として活動1980年代大ヒット映画戦場のメリークリスマス』に詳細な描写有り)。そしてフィリピン軍政下の連合国軍捕虜収容所における総責任者であった洪思翊中将のように、戦後連合国軍によって日本軍扱いB級戦犯として処刑された者も多いほどであった。そのため終戦当時の、ごく限られた極左活動家以外は組織的な独立運動すら発生していなかった朝鮮半島の、一般住民感覚としては、敵軍であった連合国軍の元で独立することが強制される事態に陥り、戸惑い驚き交叉していたとされる。しかし呂運亨を代表とした「朝鮮建国準備委員会」(建準)、曺晩植を代表とした「五道中央行政委員会」が発足するなど、朝鮮人による建国動き高まっていったが、それらの組織にはアメリカ軍到着に際して半強制的に組織されたものが多く混乱来たしていた。ポツダム宣言では南北軍政化に置き、時期指定せずに統一朝鮮政府を選ぶ自由選挙規定されていたが、しかし統一政府代表選挙の立候補資格巡って、両組織後ろ盾であるアメリカソ連利害対立激化した。特に戦前反共国家大日本帝国一部であったことから、統一選挙実施され場合に不利を承知ソ連軍によって設立され朝鮮労働党中心とした北部朝鮮は、徹底的にボイコット行い南北別々に統一選挙を行う異常事態となったその結果として1948年金日成首班とする朝鮮民主主義人民共和国と、李承晩大統領とする大韓民国という二つ国家が、北緯38度線を境にして朝鮮半島建国された。また、その後選挙ボイコットし続けた北部ソ連軍地域では、次第鉄道などのインフラソ連軍北朝鮮軍により封鎖され日本統治時代には日満国境となっていた新義州市まで直通運転していた京義線などの南北を繋ぐ大動脈も、人為的に不通となった。しかし1950年北朝鮮による奇襲攻撃により朝鮮戦争勃発し、この体制崩れ去り南北統一選挙北朝鮮による一方的な拒否により実施されないまま全面戦争至った

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