反共闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「反共闘争」の解説
労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった。これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判した。 老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは1946年3月にアメリカ・ミズーリ州フルトン(英語版)で「鉄のカーテン」演説を行った。 バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中欧及び東欧の歴史ある首都は、全てその向こうにある。(略)これらの東欧諸国では弱小勢力であった共産党が、いまや優越して、その数にふさわしからぬ権力につき、いたるところで全体主義体制を敷いている。警察政府が君臨し、チェコスロバキアを除いては民主主義などどこにも存在しない。 さらにこれに対抗する「英語諸国民の兄弟としての団結」を訴えた。これ以降、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争屋」「反ソ戦争挑発者」「ヒトラーのドイツ民族優越論に匹敵する英語圏国民優越論者」と批判した。 一方ルーズベルト時代の親ソ方針を全面破棄する事を決意していたアメリカのトルーマン大統領もチャーチルのフルトン演説にこたえて、1947年3月にトルーマン・ドクトリンを発表し、ソ連封じ込めの反共政策をアメリカの公式政策に決定した。イギリス労働党政権は初めこうしたアメリカやチャーチルの反共姿勢に反対し、イギリスをアメリカとソ連の中間に立つ「第三勢力」にしようと考えていたが、二次大戦で消耗したイギリスは、マーシャル・プランに参加してアメリカの援助を受けなければならない弱い立場だったため、最終的には労働党政権もアメリカに従って行動する路線を選択することになった。 チャーチルは共産主義に対抗するため、西側ヨーロッパ諸国を一つにまとめる必要性を痛感し、1945年11月からヨーロッパ合衆国構想を盛んに主張するようになった。1946年夏、いまだヘルマン・ゲーリングらドイツ人戦犯に対するニュルンベルク裁判が行われていたこの時期にドイツもこのヨーロッパ合衆国の中に加えるべきと提案して人々を驚かせた。この構想は1948年3月の西欧同盟、1949年5月の欧州評議会などで結実を見た。西欧同盟の後継組織である欧州連合では、欧州連合の父の一人として挙げられている。アメリカも1949年4月にはヨーロッパ反共体制の北大西洋条約機構(NATO)を発足させている 一方共産主義陣営も攻勢を強めていた。1948年2月には東欧で唯一西側に開かれていたチェコスロバキアでクーデタが発生し、同国が共産化された(チェコスロバキア社会主義共和国)。同年8月にはソ連がベルリン封鎖を強行した。1949年9月にはソ連の原爆保有が判明し、西側諸国に衝撃を与えた。同年10月には中国の国共内戦が毛沢東率いる中国共産党軍の勝利に終わり、蔣介石らは台湾へ追われ、中国共産党率いる一党独裁国家の中華人民共和国が成立してしまう。 さらに1950年6月には朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発した。イギリス労働党政権は「韓国が侵攻を退けるのに必要な支援を行う」とした国連決議に基づき、日本の占領業務を行っていたイギリス連邦占領軍を改変し、朝鮮イギリス連邦軍を組織し派遣した。もちろん保守党もこの出兵を支持した。
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