反ソ干渉戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「反ソ干渉戦争」の解説
ソビエト・ロシアに対しては大戦中の1917年末頃からイギリス、フランス、日本、アメリカなどの連合国が干渉戦争を仕掛けて、共産革命の阻止を図ろうとしていた。イギリスは北ロシアに駐留する部隊を通じてアントーン・デニーキン、アレクサンドル・コルチャークら帝政派ロシア軍人から成る白軍を支援していた。ロイド・ジョージ首相は反ソ干渉戦争から撤退することを希望し、アメリカのウィルソン大統領とも協力して関係主要国及びロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、白軍の反対により流産となった。イギリス国内でもチャーチルや保守党がボルシェヴィキとの妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張した。 戦争大臣チャーチルは各部隊司令官に対して兵士たちがロシア出兵可能な状況かどうかを問う秘密質問状を送ったが、各司令官とも否定的な返答をした。そのためイギリスの干渉戦争はロシア国内の反ソ勢力の支援継続以外には不可能であった。ロイド・ジョージがパリ講和会議出席のためにイギリス不在の間、チャーチルはこれに全精力を注いだ。チャーチルが白軍に行った支援は1億ポンドにも及ぶ。さらにアメリカ大統領ウィルソンから「各国が出兵するなら干渉戦争に反対しない」との言質を取ったチャーチルは、連合国ロシア委員会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた。 こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった。労働党はチャーチルがイギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした。こうした声に押されて、チャーチルも1919年秋までには英軍を撤退させざるをえなくなり、1920年春までにはロシア内戦はソビエトの勝利で事実上終了した。また同年7月頃にはポーランド・ソビエト戦争の戦況もソビエト有利に傾いていった。ソビエト軍によるポーランド侵攻が開始されるようになると、チャーチルはポーランド側で参戦することさえ計画したが、労働者がゼネストを起こして抵抗したため、物資支援に留まらざるを得なかった。チャーチルは軍需品をダンツィヒ経由で大量にポーランド軍に送り、ついにソビエト軍はワルシャワ攻略に失敗してロシア本国に敗走していった。ロシアの赤化は阻止できなかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大を食い止めることには成功し、チャーチルも干渉戦争に一定の成果があったと評価したようである。 しかしロイド・ジョージは干渉戦争や反共闘争に否定的であり、チャーチルを植民地大臣に転任させることでこの問題から引き離し、同年3月16日にはソビエトと通商協定を締結することで世界に先駆けてソビエトの存在を容認した。一方チャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷すぎるヴェルサイユ条約を課したことでドイツを「反共の防波堤」にすることに失敗したと批判的に見ていた。チャーチルは「ボルシェヴィキが強くならないうちに倒しておかなかったことを、いつか諸列強は後悔する時が来るだろう」と予言している。 この干渉戦争以降、チャーチルは保守党から好意的な目で見られるようになっていった
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