反テムジン連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 22:37 UTC 版)
メルキトの王、トクトアはバルグジンから帰って、モンゴルの王テムジンを攻めようとしたが、再び敗北した。トクトアはそのころ、ナイマン王(タヤン・カン)の弟ブイルク・カンに援助を求めたところ、その軍旗の下にドルベン,タタル,カタキン,サルジウト,オイラトの諸部族が集合したが、これらの部族は以前の敗戦の仇を討たねばならなかったのであり、この多数の軍隊は1202年の秋、オン・カンとテムジンに対して進軍した。オン・カンとテムジンはウルクイ河畔を去り、中国皇帝の国境に近いカラウン・ジドン山の方向へ退却した。敵軍はそこへ追跡してきて、この山脈の中に入ったが、そこで激しい大吹雪と厳しい寒気に遭い、多くの人々の手足が凍った。やがて暗夜となり、その中で人馬もろとも絶壁の麓に転がり落ちた。その軍隊はこの隘路から脱出したときには惨めな状態になっていて、敵を追撃することを断念しなければならなかった。 1204年秋、テムジンはナイマンに進軍を開始した。タヤン・カンはアルタイ山より出発し、カンガイ山の麓に本陣を置いた。その軍旗のもとに集合したのはメルキト部族の王トクトア,ケレイト部族の一首領アリン・タイシ,オイラト部族の王クドカ・ベキ,ジャディラト氏族の首領ジャムカ,そのほかにドルベン,タタル,カタキン,サルジウトの諸部族であった。モンゴルとナイマンはやや広々とした渓谷で格闘した。勝敗は久しく決しなかったが、日の沈むころナイマンは遂に逃走し始め、ナイマン王タヤン・カンはこの戦いで戦死した。この戦役の後、タタル,ドルベン,カタキン,サルジウトの諸部族は戦勝者であるテムジンに降伏した。しかしメルキト族はこれにならうことを欲せず逃走した。タヤンの子グチュルクはその叔父ブイルク・カンのもとに身を寄せ、メルキトの首長トクトアもまたそこへ行って保護を求めた。テムジンはメルキトを追撃し、ダイル・ウスンを首長とするウアス氏族にまず追いついた。ウアス氏族はタル河畔に留まり、交戦する意志のないことを声明した。ダイル・ウスンはテムジンのもとへ赴き、その娘のクランを差し上げたいと申し出て、また自分の部族が馬群と家畜が欠乏しているので従軍できないことを陳情した。テムジンはウアス氏族を百人あての中隊に分割することを命じ、一人の司令官を任命し、輜重の付近に配属させた。テムジンの出発後、これらの部隊が反乱し、軍需物資を掠奪し始めた。行幸の護衛に当たっていたモンゴル兵士は集合して彼らを撃退し、掠奪されたものを取り返すことに成功した。そこでこれらの叛徒は命がけで逃走した。 一方、タイカル・クルガンと呼ばれる要塞に避難していたウドイト氏族は降伏して捕虜となることを余儀なくされ、メルキト部族の残りの三氏族であるモデン,トダクリン,ジウンの各氏族も続いて同じ運命に遭った。次いでテムジンは、セレンガ河畔に位置するクルゥ・カプチャル城塞に籠城していたダイル・ウスンの氏族に対して兵を向けたが、この氏族も同じく武器を棄てねばならなかった。
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