反ディズレーリ派として
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「反ディズレーリ派として」の解説
辞職後も選挙法改正を阻止するために奔走し、ディズレーリとの対立を深めていった。 ただディズレーリにとっては幸いなことにクランボーン子爵は反執行部勢力をまとめられるような人物ではなかった。1867年4月に自由党党首ウィリアム・グラッドストンが地方税納税額5ポンド以上という有権者資格条件を加えた修正案を提出すると、クランボーン子爵は党に造反してこれに賛成票を投じたが、この時彼に追従して造反した保守党議員はわずかに7人だった事実にもそれが表れている。 結局ディズレーリの選挙法改正法案は庶民院を通過、ダービー伯爵の尽力で貴族院も通過し、8月に女王の裁可を経て成立した。この成功でディズレーリの党内における立場は急上昇し、ダービー伯爵の後継者たる地位を固めた。クランボーン子爵はその状況を「党全体がディズレーリの愚かな議会操縦術に惑わされている」と批判した。 1868年2月にダービー伯爵が病気のために退任し、ディズレーリが首相職・保守党党首職を引き継いだ。クランボーン子爵はディズレーリが後継者になることに反対したが、保守党議員の大半はディズレーリ以外の者が党首を務めるのは不可能という見解を有していた。 首相就任後のディズレーリは議会で敗北してもヴィクトリア女王の寵愛を盾に総辞職せず、解散総選挙も引き延ばしにした。クランボーン子爵は友人あての手紙の中で「女王陛下は『例のユダヤ人』の手先になってしまわれた。彼は女王陛下の要請によって政権に留まれる準備をした後に見せかけの辞表を提出して事態を収拾するつもりでいる。玉座に君臨しているのは女性であり、ユダヤ人の野心家は彼女を幻惑する術を心得ている」と危機感を露わにしている。 同年4月に父である第2代ソールズベリー侯爵が死去し、第3代ソールズベリー侯爵位を継承。庶民院から貴族院へ移籍した。 11月に総選挙が行われたが、保守党の敗北に終わり、ディズレーリ内閣は退陣してウィリアム・グラッドストンの自由党政権が誕生した。この総選挙直後にマームズベリー伯爵が保守党貴族院院内総務(英語版)を辞職し、その後任にソールズベリー侯爵を推す声が一部で上がったが、ディズレーリはこれを無視してケアンズ伯爵を後任にした。 1869年にはオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に選出されている。 [先頭へ戻る]
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