北ロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/17 13:43 UTC 版)
「フランク・ワースリー」の記事における「北ロシア」の解説
ワースリーはパンガロスが基地にしているジブラルタルに行く途中でロンドンを通り、シャクルトンと会った。シャクルトンはつい最近、ボルシェビキと戦う白軍を支援するために、北ロシアを対象にした国際組織に陸軍省から指名されたばかりだった。シャクルトンが極圏の専門家であることは陸軍省も認めるところであり、暫定少佐の位を与えられて冬のムルマンスク配置に備えて準備をしているところだった。シャクルトンは既にエンデュアランスのベテラン数人を徴募しており、行動を求めていたワースリーにもこの組織に加わるよう転籍を手配した。ワースリーはこのとき海軍少佐となり、翌月にはムルマンスクに出発した。 ワースリーはロシアに到着した後、アークエンジェルに行くように選ばれ、そこに駐屯するイギリス軍のために装備と物資を手配した。その極圏での経験から得られた助言を行い、兵士達には与えられた資源を如何にうまく使うかを教え、またスキーの使い方を訓練した。何度かパトロールにも参加し、士官が不足していたので、イギリス歩兵小隊の指揮を執ることもあった。1919年4月、ムルマンスク勤務に戻され、砲艦HMSクリケットの艦長になった。この艦でドビニア川を遡り、ボルシェビキの砲艦や川沿いの村を標的にした。冬の間にボルシェビキに奪われた領域を奪い返す作戦では、川岸に沿って移動するイギリス軍、白軍の支援も行った。 ワースリーはクリケットを2か月間指揮した後、モニター艦HMSM24、および補給艦HMSフォックスの艦長になった。その後ハンプシャー連隊に入れるようにしたので、艦長の時期は短かった。8月、ワースリーはボルシェビキの前線背後への襲撃に参加した。その25名の襲撃隊は電報線を盗聴することで有益な情報を入手し、ボルシェビキの輸送部隊を待ち伏せしたが、その襲撃隊の存在が直ぐに知られて、200名以上のボルシェビキ部隊に追撃された。その隊を指揮していた大尉が森の中で道に迷い、その後の方向付けをワースリーに委ねた。ワースリーは25名全員を安全な所まで誘導できた。ワースリーはこのときの功績で殊勲従軍勲章にバーを追加された。その授章理由は次の様になっていた。 1919年8月2日から5日にかけて、北ロシアのポチャで示された勇敢さを認めて。この士官は敵前線の背後に長い距離を入る大きな危険性と困難さのあるパトロールの1つを形成し、間違いなく快活な指導力により、大変な状況下で隊員全ての士気を保った。敵前線の背後にある歩いて渡れない川に橋を架けることを手伝うことで、作戦の成功に大きく貢献した。 —The London Gazette, No. 31604, 14 October 1919. 1919年遅くに連合軍がムルマンスクとアークエンジェルを離れたとき、ワースリーはロンドンに戻った。その功績について、ロシアからはセントスタニスラウス勲章に指名されたことで報いられた。ワースリーは1920年1月2日付で除隊し、イギリス海軍予備員の退役者リストに入った。その年後半、バッキンガム宮殿での儀式で、イギリスに尽くしたその功績を称え、大英帝国勲章を授けられた。
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