チェコ軍団とシベリア出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
「パリ講和会議」の記事における「チェコ軍団とシベリア出兵」の解説
詳細は「チェコ軍団」および「シベリア出兵」を参照 一方で、シベリアには5万人のチェコスロバキア軍(チェコ軍団)が残留しており、チェコスロバキア首相カレル・クラマーシュはチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクとウラジオストックから帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。
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