反セム主義政党・団体とシオニズム運動
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「反ユダヤ主義」の記事における「反セム主義政党・団体とシオニズム運動」の解説
19世紀末には反セム主義を標榜した政党が続出した。一方でユダヤ人はシオニズム運動を展開していった。 1878年、キリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)がベルリンで結成。ドイツ宮廷司祭アドルフ・シュテッカー。 1879年、ドイツで反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)結成。ヴィルヘルム・マル。 1886年、ドイツでテオドル・フリッチュがドイツ反ユダヤ協会を設立。 1889年、ジャック・ド・ビエとマルキ・ド・モレスがフランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)を結成した。ドイツではゾンネンベルク(Max Liebermann von Sonnenberg)がドイツ社会党(Deutschsoziale Partei)を結成した。 1890年、ベッケル(Otto Böckel)が反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)結成。 1892年、ドイツ保守党がティヴォリ綱領で反自由主義・反社会主義・反ユダヤ主義を掲げた。また、ドイツ中部・西南部では困窮した農民による反ユダヤ農民運動が展開した。 1893年テオドール・ガルニエ師がカトリック的ポピュリズムの組織「ユニオン・ナショナル」を設立。 ドイツ帝国議会選挙でドイツ社会党、反ユダヤ国民党など反ユダヤ諸党の議席数が5席から16席となった。ドイツ社会党らは院内会派としてドイツ改革党を結成し、代表にジンマーマンが就任した。背景は農業関税の引き下げにあるとされる。 5月、ドイツユダヤ人最大組織のユダヤ教徒ドイツ国民中央連盟が結成。 1894年フランスでデュビュ(Dubue)が「反ユダヤ青年(Jeunesse antisemitique)」を設立 ドイツ改革党はドイツ社会改革党(DSRP)へ改名し、最大の反ユダヤ主義政党となり「ユダヤ人問題は20世紀最大の問題となるであろう、そしてそれはユダヤ人の完全な分離と、最終的にはその絶滅によって解決される」と党の方針に明記した。 1896年、ドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』を著してシオニズム運動を起こした。ヘルツルは「フランスのユダヤ人はもうユダヤ人ではない」と述べたが、これはフランスのユダヤ人の同化が進んでいたためであり、フランス人への同化を主張するユダヤ長老会議(コンシトワール)は「フランス革命をもってすでにメシアの時代が到来済みである」と唱え、また多くのユダヤ人思想家たちがキリスト教徒よりもフランス人でありたいと公言していた。翌1897年、ヘルツルはバーゼルで第1回シオニスト会議を主催した。ヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。 1897年春、実業家ジュール・ゲランが「反ユダヤ同盟」を結成した。モレス侯爵が国政選挙活動のためにつくった反ユダヤ組織を再建したもので「国民の労働」を擁護して、フランスで銀行や鉄道等の企業を所有するユダヤ人のくびきからフランス人と国民を解放することが目指され、ユダヤ人の公職追放を主張した。 1902年、シオニストのヨーゼフ・クラウスナーは『タンナイ時代におけるユダヤ民族のメシア的理念』で、イエスはメシアではありえず、預言者として認められたわけではないとした。
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