反ソビエト運動
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ソ連政府は、先の第二次世界大戦によって中断された1940年のソビエト化政策を継続し、MSSRにおける権力を積極的に強化。しかし同国では戦後からの飢饉により反ソビエト運動が活発化していた。 1949年4月6日、その事態を重く見ていたソビエト連邦共産党中央委員会の政治家たちは、かつてルーマニアとドイツに協力した存在や反乱因子となっていたクラーク・起業家・教派、さらにはベッサラビア時代にて白軍の活動を幇助した者たちを国外追放することを決定する。この追放計画は南部作戦(ロシア語版)と名付けられ、当時 国家保安大臣であったヨシフ・モルドヴィチ(ロシア語版、ポーランド語版)の指揮の下、反ソ連政府思想者の追放において当事者の家族や親類に当たる人間全員が駆り出されることとなった。なお、同年7月6日と7日のちょうど2日間で11,342人以上の家族世帯が退去させられている。 かくしてモルダビア・ソビエトから40,850人もの国民が追放、11,280の家族世帯が退去することとなった。没収された財産は、集合農家と国営農場へ移されることとなり、建物や家屋は民間業者へ売却された(なお、フルシチョフ政権時代に同国を追放されていた人々がグラグに収容されていた人々と共に、徐々にではあるもののMSSRへ戻ることを許されている)。 その後の47年間、同国はソ連の一部として機能し続けるが、1980年代末までに、MSSRにおける国民運動は激化して行く。 ブレジネフ政権の同国(1964-1982年)でソビエト政府への抵抗を求める広告や小冊子が作られ、これらは主に飢饉の影響を受けた村人へ配布された。地方の教派によって配布された宗教的性質の反ソビエトの印刷物や広告と並行する形で1969年から1971年にかけ、国民愛国戦線(ルーマニア語版、英語版)(Nordul Bucovinei)という秘密結社が、キシニョフにおいて知識人の青年数人を中心に組織され、モルダビア民主主義共和国の建国ならびソ連からの離脱・独立を目標に活動。 傍ら、反ソビエト運動を展開する政党も現れた。反ソビエト運動に加わった政党は民主農業党(英語版)、ベッサラビア自由党(英語版)、ベッサラビア自由民主同盟(英語版)で、これらは秘密政党と呼ばれている。 反ソビエト運動は学校などの公共機関にも及び、反体制グループを生み出している。オルゲイ(英語版)に在ったヴァシレ・ルプ高等学校の生徒と教師によって結成された反ソ連グループ『ヴァシレ・ルプ高校団(英語版)』はその一つとして今も知られている。 しかし、1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会(the Council of State Security)委員長イオン・スタネスク(ドイツ語版)(Ion Stănescu)から、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報提供に基づき、国民愛国戦線の指導者が逮捕。これに併せて北ブコビナに構えられていた同組織の支部も壊滅し、同じくしてステファンの射手(ルーマニア語版、英語版)(Arcașii Ștefan)という地下組織のメンバーが拘束された。 一方で反ソビエトの扇動とテロ活動がフィリモン・ボディウ(ロシア語版)(Filimon Bodiu)率いる地下組織で繰り広げられ、反ソビエト軍の扇動やソ連軍の機能主義者・集団的な農民活動家や警察官の殺害などが行なわれた。またソ連政府に対しての反政府運動には武装蜂起などの直接的な抵抗活動も注目されており、武装蜂起を行なった組織で最も有名なのはアルマータ・ネアグラ(ロシア語版、英語版) (Armata Neagră、通称:ブラック・アーミー(黒軍)) と呼ばれた地下組織であった。
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