広東国民政府と中山艦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/12 20:21 UTC 版)
「武漢国民政府」の記事における「広東国民政府と中山艦事件」の解説
「中山艦事件」も参照 1925年3月の孫文の死去後、その後継者として汪兆銘(汪精衛)は広東で国民政府常務委員会委員長と軍事委員会主席を兼任した。この政府は中国国民党右派を排除したもので、毛沢東ら中国共産党の党員も参加していた。なお、中国共産党中央委員候補であった毛沢東を国民党中央宣伝部長代理に任命したのは汪兆銘であった。 広州国民政府は、列国からの承認は得なかったものの、国民党が直接掌握し、政治・軍事・財政・外交を統括する機関として、来たるべき全国統一政権の規範となるものであった。汪を委員長とする政府は、五・三〇事件から派生した香港海員スト(省港大罷工)の支援にみられるように民主的側面をもっており、汪は広州を国民革命の拠点とすることに成功した。しかし、国共両党間の主導権争いがつづく情勢のなか、1926年3月20日、蒋介石が戒厳令を布き、共産党員を逮捕し、ソビエト連邦顧問団の住居と省港ストライキ委員会を包囲する中山艦事件(三・二○事件)を起こすと、汪蒋間の対立が激化した。これは、軍艦中山艦の動静をみた蒋介石が、共産党側によるクーデタ準備ではないかと疑念をいだいて起こしたものであった。この事件によって、蒋は国民政府連席会議において軍事委員会主席に選ばれ、党や軍における権勢を拡大させたため、汪はこれを不服とし、自ら職責を辞任してフランスに外遊した。一方、共産党側の活動は大きく制限された。
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