広東システム体制下の清国研究
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「広東システム」の記事における「広東システム体制下の清国研究」の解説
詳細は「中国学#シノワズリと中国像の変容」を参照 広東システム施行以前の17世紀後半から18世紀前半にかけて、ヨーロッパの知識人たちにとって、清国の社会は実体ではなく憧憬を抱かせる虚像として理想化されたため、シノワズリ(中国趣味的な美術様式)などの流行が見られた。しかし18世紀後半に入ると、モンテスキューやアダム・スミスらのように、清国を理想郷として捉えるのではなく、「アジア的停滞と専制」の社会として批判的に受け止める思想家が現れはじめる。それら現実的な批判の根拠として、EICや使節団による清の見聞録が一助となった。 1793年に英国から派遣されたマカートニー使節団の目的の一つは、清国の情勢を探ることもあったため、使節団の中に清国研究家も含まれていた。使節団の書記官で副使格だったジョージ・ストーントンは帰国後の1797年に『使節団実記』を著し、北京-大沽-広東の内地旅行の詳細や清国社会に関するエッセイとして英国に紹介された。またこの著書を手伝った使節団会計係のジョン・バローも1804年に『中国旅行記』を公刊している。1804年に広東に渡来した宣教師ロバート・モリソン(馬礼遜)は1809年からEICの通訳官となり、中英辞典の編纂を行っている。1822年にマカートニーは「現状においてはヨーロッパ諸国民に比べると一個の半野蛮国民となっている」と、モンテスキューの見解に近い評価を与えている。 また、EICファクトリー書記官のジョン・デービスは、EICの商業活動停止後も広東に残り、ネイピア死後の第2代貿易管理官に就任したが、1836年には大著『中国論(The Chinese)』を出版している。こうした一連の著作により、同時代のあるがままの清国事情がヨーロッパに紹介されていったのである。
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