シノワズリと中国像の変容
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17世紀から18世紀にかけて中国でのカトリック布教に大きな役割を果たしていたのはフランス出身のイエズス会士であり、中国学の中心は最初に中国に進出したポルトガル・スペイン・イタリアから次第にフランスへと移りつつあった。彼らはルイ14世の後援により中国(清)に派遣され、清朝宮廷ではその高い学識・技能により皇帝・高官の信任を得て活躍した。当時のフランスではブーヴェ『康煕帝伝』など、彼らの見聞・報告をもとにした中国に関する出版物が多数刊行され、この時期の西欧におけるシノワズリ(中国趣味)の流行の一翼を担った。また海外で活動する修道士の報告書を集成した『イエズス会士書簡集』の編集者である修道士デュ・アルドは1735年に4巻よりなる浩瀚な『シナ帝国全誌』を公刊した。当時西欧で流布していた中国のイメージは、実態からかなりかけ離れた開明的な理想王国として描き出すものであった。このことはヨーロッパの絶対王政と強く結びついていたカトリック宣教師たちが、専制君主たる中国皇帝を西欧の絶対君主になぞらえ理想化していた(例えば康煕帝とルイ14世)ことと深く関係している。 以上のような中国の理想化は、啓蒙思想期にも継承された。この時期、啓蒙思想的なシノローグ(シノロジスト / 中国学者)は、中国の哲学・倫理・法制・美学を西洋に紹介することを開始した。その仕事はしばしば非系統的かつ不完全なものであったにもかかわらず、シノワズリの流行に貢献し、中国文化と西洋文化を比較する一連の論争に刺激を与えた。すなわち彼らはイエズス会士たちとは逆に、自分たちの言論を抑圧する絶対君主を批判するため、中国の文化・制度を理想化したのである。この時期中国に対し好意的な関心を持っていたヨーロッパの知識人のなかには、元曲『趙氏孤児』に影響を受け戯曲『シナの孤児』を書いたヴォルテール、有名な『シナ事情』(Novissima Sinica)を書いたライプニッツもおり、彼らは中国における儒教や科挙を合理的あるいは反専制的なものとして評価していた。特にフランスではこの時期以降、中国の思想・教育制度の影響を強く受け、教育においては科挙に範をとってバカロレア(大学入学資格試験)が制定され、思想面では農家(諸子百家の一学派)の思想がケネーの重農主義にインスピレーションを与えた。また、清代における考証学の文献批判の方法はヨーロッパのフィロロジーに多大な影響を与え、19世紀以後フランスでは、考証学を取り入れた新たな文献批判の方法を、他ならぬ古典学的シノロジーへと適用していった。 しかし、18世紀後半になると、例えばモンテスキューやスミスのように、中国文明の単なる理想化から脱し、中国の社会を「停滞と専制」の社会として批判的にとらえる思想家が出現した。彼らは中国社会について、停滞した共同体という基盤の上に皇帝による専制政治がそびえ立ち、市民社会=資本主義経済へと発展していく内発的な可能性を欠いた社会であると考え、この傾向は時代が下るにしたがってますます強くなった。以上のような「停滞論」的中国像は、西洋の社会科学において古典派政治経済学を経由してマルクスやヴェーバーへと継承された。社会の内部に市民社会への発展していく可能性がない以上、中国に資本主義化の契機をもたらすのは外部からの衝撃(西洋諸国による開国と近代化)しかなく、停滞論は中国に対する侵略戦争や植民地支配を正当化づける理論になっていく。こうした考え方は、20世紀に至ってヴィットフォーゲルのように、反共産主義と結びついた極端な停滞論(オリエンタル・デスポティズム論)を生んでいる。
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